市民出版

 私たち七つ森書館は、今年(2010年)で創業25年目をむかえます。また、私たちが敬愛して止まなかった高木仁三郎さんが亡くなってから10年になります。このメモリアルの年に、第25回梓会出版文化賞特別賞を受賞しました。たいへん光栄なことであり、あらたなメモリアルが加わってうれしく思います。たくさんの方がたのご厚情をいただいてきましたが、私たちの喜びが読者の方がたの喜びであるよう願っています。

 この機会に、これまで歩んできた道程をふりかえり、私たち七つ森書館がめざす“市民出版”について述べたいと思います。

○高木仁三郎さんとのかかわり

 まず、私と高木仁三郎さんの関わりを述べておきましょう。高木さんは原子力資料情報室の代表をつとめ、脱原発運動に尽力しました。“市民科学”を提唱し、高木学校などで“市民科学者”の育成につとめた方です。

 1969年は大学闘争が盛んなときで、東大と東京教育大(現筑波大学)の入試がおこなわれませんでした。この年に大学受験をむかえた私は都立大学(現首都大学東京)の化学科へ進みました。同学は一周遅れの全共闘運動が展開されていたので、入学してすぐにバリケードストライキに突入。その後の“正常化”の嵐で講義らしい講義に出席せず、学年末試験をうけて、とりあえず4年間在学できる単位を取得したにすぎませんでした。

 高木さんは、バリスト中の夏休みに都立大に赴任してきました。弱冠31歳のパリッとした助教授で、私たち新入生の兄貴分という感じでしたから、まもなく研究室に出入りする、というよりタムロするようになりました。

 1971年は、成田空港の反対運動が盛り上がり第一次・第二次代執行が行われ、翌年には4000メートル滑走路の南端に三里塚岩山大鉄塔がつくられました。この運動に私は学生として、高木さんは職員反戦の一員としてかかわりましたが、その後、高木さんは西ドイツのマックス・プランク核物理研究所へ客員研究員として行って自分の研究に一区切りをつけて、帰国後に大学を去りました。私はというと、「いまさら学問でもあるまい」という気持ちになっていたので、大鉄塔建設で知り合った鳶職の方に弟子入りして肉体労働を始めました。仕事は鳶職ではなく、エレベーターの据え付けやメンテナンスでしたが、必要上からアーク熔接技能士と玉掛け技能士の資格をとりました。しかし、同僚が労災事故に遭ったのを機にエレベーター屋を廃業したところに、原子力資料情報室の世話人をしていた高木さんから声がかかったのです。

 「僕の仕事を手伝わないか」

 約2年、アルバイトでご厄介になりました。そして、2社ほどの出版社を経て、1985年に七つ森書館を創業したのです。

 第1冊目は高木さんの本、と決めていたので1986年10月に前田俊彦さんとの対論『森と里の思想』を出版しました。この年の4月26日にチェルノブイリ原発事故が起きていましたから、12月に第2冊目『チェルノブイリ』(高木仁三郎著)を出版し、翌年花崎皋平さんと高木さんの対論『あきらめから希望へ』を出しました。本書は、チェルノブイリ後の重苦しい閉塞感のなかで、「生きることと運動することがかぎりなく一つになる地平」を求めるものです。私たち七つ森書館のはじまりは、いろいろな意味でこの3冊にあります。

 それからは、市民運動をしながら、編集プロダクションの仕事もして資金を稼ぎ、年に2〜3冊の本を出版する、という体制でした。出版も市民運動も楽しくやっていきたい、という感じです。96年に創業10周年の記念出版として『脱原発年鑑96』(原子力資料情報室編、2000年からは『原子力市民年鑑』)の刊行を開始しました。

 97年の年末は大きな喜びに包まれました。高木さんがライトライブリフッド賞を受賞したのです。聞き慣れない賞の名前でしたが、同賞は“もうひとつのノーベル賞”といわれるほど国際的には有名な賞で、「我々が現在抱えるもっとも切迫した課題に対し、優れた解決策を実践によって提示した」ことに対して贈られます。核燃料サイクルにおけるプルトニウム利用の危険性を研究して、マイケル・シュナイダーさんとの共同受賞でした。

 受賞理由となった研究のレポート『MOX(プルトニウム燃料)総合評価』の邦訳版を届けたとき、高木さんはベッドの上にいました。大腸ガンに冒されて手術をしたのです。

 2000年10月に他界しましたが、亡くなる1か月半ほど前に、自宅に呼ばれ、「君にまかせるよ」と著作を託されたのでした。
 1年後の2001年から『高木仁三郎著作集全12巻』の刊行を開始しました。2か月に1巻ずつ配本し、2年間で完結する計画でスタートしました。短期決戦でなければ完結し得ないと思いを定めていました。無理もありません、わずか40冊ほどしか出版していない小出版社でしたから、私財(住宅購入用の資金などがありました)を投じるのはもちろんですが、予約募集のお金が尽きる前までに突っ走りたかったのです。編集プロダクションの仕事との掛け持ちはできませんから、これも整理しました(後に、裏目に出たのですが)。

○読者の方がたの力で、倒産の危機を乗り越えました

 2003年の正月は、暗澹たる気持ちで迎えました。『高木仁三郎著作集』は半ばまで刊行したのですが、資金がつづかず、来月には倒産か、というところまで追いつめられていたからです。やはり、全集物はたいへんな資金を必要としたのです。

 ある方が年賀状に「私の尊敬する数少ない出版人のお一人は中里さん。必要なときは株主にさせてください」と書いてくださっていました。これを頼りに、窮状をうったえる手紙を書きました。

 2日後に電話をいただいて、その翌日に訪ねました。2期分の決算書、資金繰りの見込み、著作集完結までの見通しなどの書面を用意したのですが、いざとなると頭のなかが真っ白になって、何をどう話したのかはっきりと覚えていません。ただ、「困っている」としか言えなかったように思いますが、「わかりました、増資をしましょう。お金は出しますが、口は出しません」とおっしゃってくださったときは、体の力がぬけていく呆然とした安堵感が体中に広がりました。その方はさらに、「みなさんに呼びかけて、もっと増資したらどうですか」とおっしゃるのです。逡巡する私に、「大丈夫、七つ森ならみんな出してくれますよ。1株1万円にして、郵便振替を同封してカンパのように送ってもらってはどうですか」──事務所に帰る道々、はてさてどうしたものか思案に暮れ、考えをまとめるのに2か月ほどかかりました。

 小社では、「七つ森通信」という愛読者向けの小冊子を発行しています。愛読者カードを寄せてくださった方や本を注文してくださった方の住所を控えておいてお送りするのですが、その数は4000名をこえるまでになり、年2〜3回発行しています(現在、22号まで発行)。趣旨は、自分たちがつくった本を自分たちの言葉で読者に勧める、ことです。4月発行の通信で、「脱原発の本、50冊へ歩んできました──読者のみなさまへ、感謝をこめて」という読者宛の手紙を載せました。七つ森書館の歩み、高木著作集のこと、出版に対する考えを述べた後、次のように結びました。

 「さて、出版企画を、総花的なものとしてではなく、総合的な取り組みとして実現したいと思います。私たち七つ森書館が踏み出す一歩は、読者のみなさまが踏み出す大きな一歩とともにありたいと思うからです。

 今年初め、年賀状などで多くの方から励ましの言葉を頂戴しました。なかには、社会派の総合出版社をめざしてほしいとまでおっしゃる方もいらっしゃいました。たくさんの方々から物心両面のあたたかいご支援をいただき、身にあまるありがたさを感じています。そして、ある“思い”を抱くようになりました。それは、七つ森書館は私たちが運営していますが、私たちだけのものではない、という思いです。うまく言えませんが、あなたに七つ森書館へ参加していただきたいという“思い”です。

 そのためには、どうすればいいでしょうか。活力ある出版企画、情報発信の充実など、直接の交流を深めていきたいのです。そのひとつとして、積極的な意味で“増資”をしようと考えるにいたりました。株主になっていただいて、あなたに七つ森書館へ参加していただく、というのはいかがでしょうか。小社が資金を必要としているのは事実ですが、より多くの方に参加していただき、出版企画もふくめて交流しながら運営していきたいという思いが強いのです。そのために、株式は一株一万円という、参加していただきやすい方法を考えています。近日中に、ご案内を送らせていただきますので、ご検討いただきたく存じます。忌憚のないご意見をお聞かせください。むしろ、忠告、苦言やもしれませんが。(中略)

 私の手紙をここまで読んでくださってありがとうございます。この数年、考えてきたことをようやく言葉にできたという感じがします。読者のみなさまへの感謝の気持ちを持続する力とし、市民とともに歩む出版社でありたい、という思いをお汲み取りいただきたく存じます」

 それから、どれくらいの方へ増資の案内状を送ったでしょう。おそらく、1000通以上になったかと思います。結果として、百数十名の方に株主になっていただき、合計2000万円の増資をして第一の危機を乗りきることができたのでした。その後、少人数私募債でお世話になった方も多数いますが、これらの方がたの中には話をしたことも、お目に掛かったこともない方が多数います。お顔を出さない方々が支えてくださっているのです。有り難いことです。

○出版分野を広げてきました。

 高木著作集は、刊行から2年半後の04年4月に完結することができましたが、他にも危機的状況は何度かあり、その都度、何人もの方に助けていただきました。また、著作集の編集委員の方の本を出させていただきました(佐高信著『教育革論』、鎌田慧著『時代を刻む精神』など)が、その間に私たち七つ森書館は大きく成長してきた、ということもできます。しかし、著作集が残した多大な借入金を返済しながら、ですから楽ではありません。

 まず、著作集をスタンドアローンにしないために、脱原発・エコロジー書の充実、安全で安心できる暮らしを提案する生活書の発行など、発行点数を増やしてきました。

 01年の9.11事件後のイラク戦争に対して、『世界は変えられる』(平和をめざす翻訳者たち編)などを出版し、「戦争と平和」のジャンルをつくりました。本書は反響を呼び、日本ジャーナリスト会議の市民メディア賞を受賞しました。また、憲法問題では憲法行脚の会のお手伝いをしながら、『戦争で得たものは憲法だけだ』(佐高信・落合恵子編)『城山三郎と久野収の「平和論」』(佐高信編)などを発行してきました。

 今回の出版文化賞特別賞で評価していただいた新自由主義批判の本としては、『ポスト新自由主義』(山口二郎編著)や『官製ワーキングプア』(布施哲也著)などがあげられます。後者は、『官製貧困社会』『官製クライシス』と並んで“官製3部作”としました。

 ここ数年は毎月2点の新刊発行、年に22〜23点までになり、15分野にわたる本を出版するまでに成長してきました。とはいえ、社会問題を取り上げる“七つ森的”な本を発行し続ける出版社が、めっきり減ってきたことに気づいています。残念なことではありますが、ここに私たち七つ森書館の存在意義がある、ということができます。

○私たちがめざす“市民出版”

 高木仁三郎さん没後に開かれた偲ぶ会では、「平和で持続的な未来へ」と掲げられました。この理念のように、私たち七つ森書館は「平和で持続的な未来へ向かう“市民出版”」をめざしています。かつて、高木さんが実践した“市民科学”の理念を出版において継承しようというものです。

 また、高木さんは『人間の顔をした科学』のなかで「人びとが安心して安らかに暮らせるような科学のあり方」と述べています。私たち出版社の立場からすると、「安全で安心できる暮らしの本」を発行するということです。

 未曾有の金融危機に直面しているいま、組織としての会社のあり方や出版に対する考え方など、根本的なことも考えなければなりません。

 私たちは大きな出版社を望みません。極端な比較だと思われるかもしれませんが、金融危機をもたらしたのは巨大な企業とも言えるからです。サブプライム金融危機は新自由主義そのものの破綻を示しているのではないでしょうか。

 小さくとも、いや小さいからこそ、“人間の顔をした等身大の組織”としてやっていきたいと思います。

 出版社の根本は、文字を印刷し製本して本として販売することをもって、経営を成り立たせているといってもよいと思います。時の権力からはなれて、自由に議論することが大切です。しばらく前のことですが、財界巨頭が、厚労省の年金問題などのマスコミ報道についてこう述べました。「厚労省叩きは異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうかな。スポンサーを降りるとか」──言論出版の自由に対する重大な挑戦です。

 私たち七つ森書館にとっては、たとえば柏崎刈羽原発のような原子力問題について『東京電力 帝国の暗黒』のように実名を挙げて批判する本を出版することは重要なことです。『原子力市民年鑑』を毎年出版することも必要です。こういった本を発行できる出版社でありつづけたいと考えています。“権力や権威に対して批判的”で“独立した”ジャーナリズムを築いていかなくてはならないと痛切に感じます。

 私たち七つ森書館は、読者、市民の方々に支えられているからこそ、このような出版を継続できるのだと改めて考えるのです。

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