あの日、
東海村でなにが起こったか
写真と文 粟野仁雄


 

   

■著者より■
事故は風化しない
 この事故を風化させるなら日本は終わり、の一念が「出版は遅いかな」を押しのけた。
 私は取材で茨城県東海村に居合わせ事故遭遇した。「想定外」に国が右往左往する中、「皮膚感覚」で住民を救った村上達也村長をはじめ、臨界終息「決死隊」の指揮官、壮絶な死を遂げた大内久さんと篠原理人さん、彼らの救助で被曝した消防署員、不安におののく住民、逮捕されたJCOの木訥な所長、「バケツ作業は事故の本質ではない」と早くから炯眼を見せた故高木仁三郎氏、ごまかし方すら幼稚だった省庁再編直前の旧科技庁役人──。国内最悪の原子力事故に巻き込まれた様々な人々の、今春の初公判までのドキュメントである。
 シュートカットが破局に至ることを創造できない、原理知らずのマニュアル作業、過去に取材した事故との対比から「崩れた安全神話」の背景も分析した。会社指弾の嵐にも心情を正直に吐露してくれていたJCO社員に感謝したい。

『週刊 金曜日』2001年11月30日 390号より


現場の声集め「臨界事故」再現

 1999年9月30日、東海村のウラン加工会社JCOで「臨界事故」が発生した。二人の作業員が大量の中性子線を浴び、3ヶ月後に大内久さんが、7ヶ月後に篠原理人さんが亡くなった。

 本書の著者は、たまたま核燃料サイクル開発機構の取材で同村にいて、事故発生二時間後に現場に駆けつけ、「同日夕刻になって“被曝した可能性が強い”と社命による“取材中止令”を受け」た。そのことが逆に、著者のジャーナリスト魂を刺激したのであろう。事故とその後の経緯を、我が国の原子力行政の歴史をふまえつつ、克明に記録した本書を書き上げることとなった。

 特筆すべきは、民間会社JCOをはじめ、原子力関連組織の技術者一人ひとりに丁寧に取材し、「技術王国」の裏方たちの本音を引き出すことに成功した点であろう。「業務上過失致死罪」で起訴された所長さんをはじめ、「広報幹部氏」や「技術幹部氏」の人柄に、原発に反対の評者が共感さえおぼえた。この不思議な気持ちは、前後して出た『東海村 臨界事故の町から』(旬報社)でさらに強められた。近接する茨城キリスト教大学の教員たちが、事故直後から記録した証言集である。周辺住民の間での事故の受けとめかたの温度差、とりわけ古くからの住民の冷静さをどう理解したらよいのか。

 事故の直接原因は、裏マニュアルや「バケツでウラン」に象徴される安全管理の軽視にある。だが、民間企業の効率最優先ゆえの手抜きを見過ごしてきた監視体制の不備や、霞ヶ関の監督責任者たちが省庁再編に乗じて姿をくらましたという事実を看過してはいけない。「事故直後の記者会見で、事務次官だったかしら、あのひきつった顔を見て、ただ事ではないと思ったわね」。不覚にも評者は、友人にそういわれるまで忘れていた。2年前の事故なのに、10年前のことのように記憶が薄れていた(反省)。

 同じ過ちを繰り返すな、あの事故を風化させてはならない。この2冊の本はそう訴えている。 

『朝日新聞』 2001年11月11日より [評者]新妻昭夫(恵泉女学園大教授)


 

 

 東海村のJCOという民間施設で臨界事故が起こったのは1999年のこと。そんなことあったっけ?というほどの時間はたっていないはずなのだが……。本書は、この事件を風化させてはいけないと取材を続けた記者の真実の記録である。村の住民から、原子力の専門家まで、様々な角度から取材し、この事件を検証している。

 事故発生時から大まかに時間の流れにそってまとめてあり、まるで小説でも読むかのように読み進めるが、具体的な記録、報告を突きつけられ、その事態の重大さ、リアリティーを感じずにはいられない。
 何の変哲もない住宅街の中の工場で、臨界事故が起きた。原子力の村として有名な東海村の住民でさえ知らなかった、民間工場による原子力発電に使うウラン燃料の製造。さらに、思いもかけなかったのが、バケツを使った手作業によるウランの熔解。原子力が自慢だったはずの村では、原子力に対する信頼はなくなり、不安だけが残った。その不安とはどんなものなのか。また、読者の臨界事故という得体のしれないものに対する疑問にもしっかりと答えてくれている。

 最後には、この事故の裏に潜む、現代日本の問題をも提示している。分業主義、モノつくり経験の欠如、皮膚感覚の衰えなど、こういった日常的な日本社会の欠点が積み重なって、ついには臨界点を超え、大きな事故をひきおこす。それはこの事件に限ったことではない。日常生活の中ですでに共存している危険へ警鐘を鳴らしてくれている。

『top journal』2002年1月号 ブックレビューより


 核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)が茨城県東海村で引き起こした臨界事故から2年がたった。
 当日、たまたま現場から10km強の場所で、事故のことなど何も知らずに取材をしていた私は帰宅後、「臨界事故」「半径350m以内の住民避難」「半径10km 以内の住民屋内退避」を伝えるテレビニュースにぼうぜんとした。「屋内退避」の圏外にいた者でさえ感じた不安と恐怖…。現場近くの住民や行政関係者、また事故を引き起こしたJCO社員らがどんな思いを抱いたかは想像に余りある。
 通信社の記者として事故当日から東海村で取材を行ってきた著者は、「事故を風化させてはならない」の一念で、改めてルポタージュを書き下ろした。本書には、事故を起こしたJCO東海事業所所長、いち早く住民避難の判断を下した東海村村長、臨界終息の作戦を立てた日本原子力研究所東海研究所副所長ら関係者の肉声がふんだんに盛り込まれている。

 事件後、盛んに報道されたのはJCOの「ずさんさ」だった。確かに、バケツとひしゃくに代表される裏マニュアルの存在、効率優先の意識、社員教育の不徹底など、JCOの管理体制には大きな欠陥があった。
 だが、著者は「責められるべきはJCOだけか」と問う。臨界になり得る形状の容器(沈殿槽)がありながら安全審査に合格させたうえ、長年、違法操業を見逃していた科学技術庁(現文部科学省)の責任はどうなるのか。事故当日、危機管理が全く機能しなかった官邸のお粗末さも目に余った。
 2000年10月、業務上過失致死の罪でJCO社員^人が逮捕され、臨界事故は司直の手にゆだねられることとなった。だが、事故に至る本質的な原因や危機管理体制をあいまいにしたまま責任を現場に押し付けるだけでは、問題は何も解決しないのではないか。

 本書は改めて臨界事故の経過を追うことで、何ら教訓を得ぬままふたをしようとする国の姿勢を浮き彫りにしている。幅広く、また丹念に事実関係と関係者の声を拾い集めた力作。この国の原子力政策の行方についても考えさせられる。

『日経エコロジー』2001年12月号より(経済ジャーナリスト=小林佳代) 


 茨城県東海村のJCOでの「臨界事故」が発生して、2年がすぎた。大量の放射線を浴びて死亡した労働者の皮膚や体内の悲惨な状況がつたえられた。死者以外にも、被曝した労働者や住民の恐怖と不安はつづいている。

 事故から2年たって出版された、粟野仁雄『あの日、東海村でなにが起こったか』(七つ森書館)は、当時、水戸の支局にいた記者が書いたものである。
「序章」に、被曝死した大内久さんの葬儀の描写がおかれている。事件や事故から月日がたつと、マスコミでは見むきもされなくなるが、まだこだわっている記者がいるのに、ホッとさせられる。
 たまたま事故発生の99年9月30日、取材で東海村に居合わせた著者は、事故現場に一番乗りの記者となった。当然、被曝している。それが原発へのこだわりとなっているのだが、事故後の経過ばかりではなく、周辺の動きにもよく目配りされている。たとえば、安全宣伝のために設置されている「原子力展示館」の職員の苦渋など、原発関係者の自分の職業への問いかけがはじまっている。

 著者は、この本を出版してから、退社した。45歳の家族もちである。なぜかはわからない。新聞社は、せっかくの記者を有効に使っていないのではないか、との疑問がわたしには強い。「特集班」にいてチームプレイしている記者以外は、記者クラブなどに縛りつけず、好きなことを勝手に取材させておけばいいのに、と思う。……後略 

『東京新聞』2001年11月30日 ノンフィクション評判記より(鎌田 慧=ルポライター)