チェルノブイリ──最後の警告


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「チェルノブイリ最後の警告」

 あの事故の報にわれわれが接したのは、去年のゴールデンウィークの初日の4月29日であった。「もうこの世も終わりか」となかば本気で思った人も多かったはずだ。私もその一人であったが、恐ろしいことに、「喉元すぎれば……」という法則はこの場合でさえ有効なようである。
 本書は著者が事故直後から最近まで、原発事故はけっして「喉元をすぎる」性質のものではないこと、日本でも起こらないとはいえないし、そうなったら日本の場合の悲惨さは想像をこえることなどを訴え続けた記録である。
 しかもである。青森県の下北半島六ヶ所村に建設が計画されている核燃料サイクル基地。その核燃料再処理工場は使用ずみ燃料の集中によって100万キロワット級原発に匹敵する放射能をたくわえ、その発する強熱のためにもし冷却系が故障すれば、最終的には原発と同じメルトダウンを起こす可能性があり、また低レベル廃棄物処理施設は“低”レベルとはいえドラム缶百万本を地下水の通る帯水層に埋め捨てしてしまおうとするものなのだそうである。そしてそのための法“改正”はチェルノブイリ直後の去年五月に、さしたる論議もなしにわが国会で成立したという。
 この小さな列島に33基の原発があることだけは知っていたが、サイクル基地などというやさしそうな名前の施設がそんなにも恐ろしいものだとは。無知は恥じることができるだけで、けっして言いわけにはならない。

(田畑光永)
『月刊宝石』4月号「ブックハンター」欄より

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「チェルノブイリ最後の警告」

 ソ連のチェルノブイリの原子力発電所の事故は、史上最大・最悪の事故である。このチェルノブイリの原発事故に、高木仁三郎氏が全力を投じて取り組まないということは、ありえないことである。高木仁三郎氏は日本に於て原子力発電の問題について、最も深く研究を重ねるだけでなく、世界のあらゆるところで開かれるさまざまな原子力会議にできるかぎり出席し、同時に原発大国日本(現在33基の原子力発電所が稼働)の原子炉事故のたびに、現地を訪問して原因を追及し、それを“脱原発”運動として、全日本にさまざまな試みを通じて訴え、事故に至るのを防ごうと努めてきた、じつに優れた運動者の一人だからである。
 本書のまえがきの終りに著者は次のように書いているが、この著者の願いができるかぎり多くの人々の胸に収められ、問いの炎を発することを、私は期している。もっとも、本書を読まれるひとは、原子力発電所を作る理論、つまり放射性物質であるウランまたはプルトニウムを用いて核分裂を起こさせ、それを原子炉燃料として発電を行なう原子力発電の原理と、原子力発電所を取り巻いているあらゆるかかわり、関係を見落すことなく、図形、写真、グラフなどでたどることができる。そして、今後大事故がソ連の原発にかぎらず、アメリカの原発、またその他の国の原発にも起こりうることが、やさしく説かれているので、著者の願いは、必ず実現されるに違いない。
 “事故後のあの強烈な衝撃も薄れつつある日々ですが、日本に33基の稼働原発をかかえ、世界で400近い原発が運転されている以上、チェルノブイリで起こったことは、常に生々しく私たちの脳裡にとどめておかねばなりません。そのために本書がひとつの役割を果たしてくれれば、というのが私の願いです。”
 1986年4月26日早朝、チェルノブイリ原子力発電所の大事故は発生したのである。序章は、“衝撃”という表題の下に出されているが、4月29日日本でそれを把えた時のことからはじめて5月12日まで、心せくままに、あらゆる手段を用いてこの大事故に迫ってゆく著者の日録が、内心からの問いかけのように訴えてくる。4月29日のはじめのところを次に引こう。

“4月29日
 その日、私は友人のHさん一家を中心に南房の鴨川でやっている農場に来ていた。朝7時のテレビニュースをつけた途端に‘ウクライナの原子力発電所で事故があり、北欧一帯でヨウ素やセシウムなどの放射能が検出され、スウェーデンでは通常の10倍の……’――そこまで聞いて、衝撃が体中を走った。メルトダウン(炉心溶融)。即座にそう思った。田植えの準備のために田んぼに出るはずだった予定を急拠変更し、万一の放射性降下物に備えて家畜たちのために草刈りをしてたくわえ、東京に戻った。戻った時には、スウェーデンでは毎時1ミリレントゲンの線量を記録したという情報が追っかけてきた。それだと通常時の100倍である。こともあろうに、チェルノブイリから千数百キロ離れたところで、1ミリレントゲンとは。その時頭に浮んだのは、日本の原発の防災指針のことであり、それを批判して行なった私たちの6年前の作業のことだった。スリーマイル島事故後に出された原子力安全委員会決定‘原子力発電所周辺の防災対策について’(1980年)によると原発の事故後に毎時1ミリレントゲン以上が記録されるようになったら、‘災害対策本部の設置の準備等、災害応急対策のうち初期活動を開始する’となっている。毎時1ミリレントゲンとはそういう値なのだ。”

 この引用ですぐ明らかになるように、著者はじつに鋭敏に反応して、日本の原発(例えば東海原発)に大事故が起きれば、東京、日本はどうなるかを思い、その対策を実行に移しているのである。ここに引用した“衝撃”の最初の部分を見ていくとき、著者が本書のなかで、原子力発電の備えている一切の問題を見のがすことなく問いつめ、解明し、それが地球上の人間はもちろん生物に、大きな破壊をもたらすばかりではなく、核戦争、環境汚染・破壊と同じように、核文明がその絶滅をもたらす恐れのあることを、繰り返し警告する。しかもその上でなお、“明日への希望こそが、人々を動かす力となる。”といい、“脱原発”の運動がそこに始まっており、自身それに加わっていることを知らせるのである。
 “4 日本の原発でも事故は起きうる――ソ連報告書を読んで――”の章で、著者はソ連の公表したチェルノブイリ事故の報告書を読み、その記述に矛盾があれば、正確に理由をあげて自身の考えを述べ、訂正を行ない、次のように整理している。“原子炉出力は事故のちょうど1日前から低下し始め、50%出力維持したのち、いったん3万キロワットまで下げた(人為ミスとされる)後、20万キロワット(6%出力)で維持され、実験が行われた。すなわち、4月26日午前1時23分04秒、タービンを遮断した慣性回転の実験に入ったところ、出力の増加が始まり、23分40秒に運転責任者の指示で手動緊急停止用のボタンAZ-5が押されたが、制御棒は途中で止まってしまい、4秒後に出力は定格出力の100倍となり、燃料は破壊された。そして砕けた燃料が水蒸気と接して、水蒸気爆発を起こした。さらに、その2、3秒後にも、第二の巨大な爆発が生じた。”冷却材喪失状態に陥り、メルトダウンという、はじめ考えてきていた経過よりもはるかにはやい過程で、数秒という短時刻で二つの爆発が起こって、燃料体は熔ける間もなく砕け散り、花火のように原子炉と建物を突き破り、飛び出るという巨大な核暴走である。
 私はこの事故のすぐ後、5月8日のドイツの第二次大戦敗戦記念日に開かれた日独作家シンポジウムに小田実、李恢成、伊藤成彦等と出席し、戦時中の過去の日本とドイツ、そして現在進行中のチェルノブイリ事故ならびにアメリカの核兵器装備基地、この二つを中心テーマとして論じ合ったのである。そして西ドイツのベルリン、カッセル、レインズブルク、ミュンヘンへと会場を移していくなかで、牛乳が飲めなくなり、野菜が食べられなくなり、途中の牧場から、放牧の乳牛、豚、羊などの姿が消え去り、子供用の脱脂粉ミルクなどを求める市民の様子などを眼にして、忘れがたい異様な思いをしなければならなかった。その上私は“もし万一人類がこの事故の災害をまぬがれ、生き残ることができるならば……”という絶望のにじみでている言葉が、ドイツのじつに優れた作家ドレーヴィッツ、またミュンヘン市の助役、その他の人々の口から出るのを聞いた時のことなどをありありと思い浮べ、この書物を読みすすめたゆえ、私はここから大きな作用を受けた。被害は全ヨーロッパに及び、今日、日本に輸入される食品のなかに放射能汚染が発見される有様である。
 巻末につけられた資料“原発廃棄に向けて世界は動き出す”は、アメリカ、イギリス、イタリア、エジプト、オーストリア、オランダ、スイス、スウェーデン等世界の主な国での“脱原発”へと向かうといってよい動きを簡明に把えていて、チェルノブイリの事故の広がりの大きさとその後の各国の対応の違いのなかでの連係の成立地盤を読みとることができる。
 もっとも、核燃料再処理工場の問題については十分触れられているが、原発が常に生みだし、作業する人たち、さらに周辺の住民に及ぶ低線量の放射線の作用についての記述が不足しているのが惜しまれる。なお、この書物の全体について、疑問が残っているが、それについてはここに改めて書きしるすことはしない。読者のひとりひとりに、この書物を媒介として、考えを深め、問い尋ねていただきたいと考える。

(野間 宏・作家)
『科学』(岩波書店)書評欄より 1987年5月号 vol.57 No.5

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