高速増殖炉もんじゅ


書評1 書評2 書評3 

書評4 書評5 書評6 目次


書評1
技術者の視点で冷静に

 建設中の「もんじゅ」の取材中、動燃事業団の技術者が「もんじゅは、造ることでその役割の8割は達成したことになる」と語った言葉がいつまでも耳に残っている。地元の人間として強い違和感を感じたからだ。「動かすことに2割の価値しかないのなら、やめたらどう…」。心の中でそうつぶやいていた。
 もんじゅの技術的な特徴や問題点を総合的に取り上げた本書は325ページの大作だが、もんじゅについて根本から知りたいと思っていた人にとって待望の一冊だろう。著者は、京大原子炉実験所の助手で、原子核工学の研究者。もんじゅ訴訟の原告側証人として法廷にも立っている。
 高速増殖炉の意味、エネルギー発生の仕組み、増殖のメカニズムから説き起こし、もんじゅ固有の問題点へと話が進む。技術的にかなり踏み込んだ記述だが、著者は非常に分かりやすく説明しており一気に読み通せる。特に軽水炉との比較で説明されているため、軽水炉の知識をある程度持っている本県の人には理解しやすいだろう。
 本書の核心をなすのは、高速増殖炉が炉の特性として暴走しやすいことを技術的に説明している部分。各国の事故例や図表などを駆使して解説されている。また、危険なナトリウムを冷却材に使っているゆえに非常に複雑な構造となっている点も強調されている。特に、地震に対して根本的に弱さを持っている点の指摘も説得力がある。
 実際、もんじゅの内部を見た人なら、のたうつ奇妙な配管構造に驚かされた経験を持つだろう。また、配管からぶつぶつと突き出しているヒーターや取り付け部分がショックアブソーバー状になっていることも、ナトリウムの扱いの難しさを実感させられる。
 著者は、基本的に反原発の立場だが、本書ではセンセーショナルな表現は極力抑えられており、冷静な技術者の視点が貫かれている。

『福井新聞』1994年3月14日付

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次 


書評2
説得力ある技術解説
エネルギー問題の打開に挑戦を

 本書は、原子核とか核エネルギー反応などにつき初歩的知識を持つ読者層に対して、ナトリウム冷却高速増殖炉、特にようやく来月にも運転開始する予定の「もんじゅ」とはどのような炉であるかを、300ページ以上を費して懇切に解説したものである。
 高速炉の主題である核燃料増殖の仕組みから説き起し、「増殖するには高速中性子でなければならない」ことを結論する。(実は、これはウランに頼る原発の場合であって、トリウム炉では熱中性子でよい。)次いで炉心の炉物理・燃料工学的諸問題、さらに化学的反応性が極めて強く熱衝撃性も問題のナトリウムを冷却材としたための安全上の諸問題、高濃度で多量のプルトニウムを使用するのに関連する難問の数々などを説き明かしている。特に地震対策を含め炉全体の安全性、特に複雑な要因がからまり合って発生する苛酷事故の可能性について、素人向きになかなか巧妙で説得力ある解説を試みている。
 歴史的開発経過を含めての世界の動向解説も適度と言えよう。少しは細かいミスがあるが、これらに関連する技術内容面全般について知識を深めようと思っている知識人一般には、かなり有用な力作であると思う。
 各専門家は個々の論議について反論を持つものもあろうが、安全かつ経済的な高速増殖炉をまとめるのを諸国が断念した理由はよく分ると思う。それでも殆ど日本だけが推進しようとしているのは、原子力産業保護、年4千億円以上の予算を投入し続ける国家意志、それに潜在的な核兵器保有能力への欲望と彼は言う。立ち入った論議は本書の主題を越えているが、その当否は本書の技術的解説を基礎に置いて読者自らが考えてみてほしいと言うのであろう。
 しかし、問題はその先である。原子力だけでなく我が国の全てのエネルギー政策は根本の所で誤っており、何はともあれエネルギー消費を減らすことであり、太陽エネルギー利用以外の新エネルギー技術開発などは考慮に値しないと、「病んだ科学技術」を痛烈に批判している。これは当世風には耳ざわりがよい主張であろうが、筆者は組しない。
 日本が世界屈指のエネルギーに弱い国であり、また互助精神が余程欠落してしまった衰弱した社会でもある。もし奇蹟的に日本だけは手抜きが許せる状況が持続できても、世界のエネルギー環境問題の改善に失敗したならば、日本の破滅も明白である。この大問題打開への挑戦が全く見られないのは残念である。
 そのような視点から改めて本書を顧みると、そもそも過去の原発とは何であったのか?その理想形態とはどのようなものであるのか?を考えていない所に大きな欠陥が潜んでいると言えそうである。単なる否定論は、科学技術者にとり致命的な自己矛盾であろう。
 出発点が、原発とはウランやプルトニウムに依存し固体燃料を使用するものとの既成概念に捕らわれていては、技術批判は完結しえないであろう。少くとも平和利用のためには、全く別のトリウム液体燃料による技術を含めて再考・再出発すべきである。これは、戦前TVAで先進的な大規模地域総合開発を成功させ、戦後は生涯を通して真の核エネルギー平和利用を追求したリリエンソールの遺言でもある。(参照リリエンソール著『岐路に立つ原子力』日本生産性本部)トリウム再考は最近、IAEA事務局次長らも指摘している所である。その上で真剣な選択を考えてみるべきである。
 人間の営みは常に欠陥を伴う。しかし、過去の全てを積極的に活かしつつ一歩一歩改善策を講じつつ人類は生きて来た。そのような道を探すのに「もんじゅ」は何を教えつつあるか、もっと広い視点から再考したいものである。

(古川和男・東海大学教授・高温融体技術、核エネルギー論専攻)
『週刊読書人』1994年4月8日号

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次 


書評3
「もんじゅ」

 4月に初臨界を予定している動力炉・核燃料開発事業団の高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)を、専門家の立場から批判してきた京大原子炉実験所の小林圭二助手(五四)が、多くの人に危険性を知ってもらいたいと「高速増殖炉もんじゅ―巨大核技術の夢と現実」(七つ森書館)を出版した。
 小林さんは炉心の特性などを調べる炉物理の研究者。「もんじゅとは何?」という一般の人の疑問に答える本がないと地元の人に頼まれたのが執筆のきっかけ。
 分かりやすい解説に手間取ったが、もんじゅの臨界も遅れたため「おかげで臨界までに間に合った」と冗談交じりに話す。
 「もんじゅは核兵器の材料でもあるプルトニウム燃料を使うなど、従来とは異なる問題を抱えた原発であることを多くの人に知ってもらいたい」

『高知新聞』1994年3月12日付

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次 


書評4
「もんじゅ」

 原発の危険性を訴える書は既に多く出されているが、本書は原子炉研究者による高速増殖炉批判の書として貫かれている点がきわだっている。<原発として最初に注目されたのが高速増殖炉だったこと、その高速増殖炉がいまだにものになっていない><世界で約400基の軽水型発電炉が稼働しているなかで商業用高速炉はただの一基も稼働していない>事実は何を物語るのか。そんな動きに逆行する試みが一九九一年、福井県敦賀市に建設された高速増殖炉「もんじゅ」である。ただしさまざまなミスや問題点が露見し、稼働は延期されている。
 著者は、高速増殖炉が何故脚光を浴びながら破綻したのかを専門家らしく丹念に検証する。同時に<原発問題の根本にちがいがあるわけではない。軽水炉ならまだましだ、などというつもりは毛頭ない>と、個別の技術問題に終始せず、原発が際限なく拡大する構造そのものを批判する。

『出版ニュース』1994年4月中旬号

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次 


書評5
「高速増殖炉もんじゅ」

 高速増殖炉の「もんじゅ」(福井県敦賀市)が4月、本格的な原子炉の実験を始めた。欧米が相次いで開発から撤退したが、もし体系を完成させれば、消費した以上のプルトニウムを生み出してウラン資源を60倍も利用できるという「夢の原発」。かつて、この夢に共感した原子炉研究者が、全体像をわかりやすく説明して「科学的装いをこらした幻想」と結論したのが本書だ。
 著者は「未来のエネルギーは原子力しかない」と、京大工学部に進み、現在は京大原子炉実験所助手。70年代初め、住民運動に接したが、「原発は権力や金にものをいわせて建設するのが悪いとは思っても、技術的な危険性が致命的とは考えませんでした。高速増殖炉も無尽蔵のエネルギー源と信じ、多少危険だが、科学技術で克服可能と思いました」。
 ところが、現実の原発に接すると、理論や大学内の実験とは別の世界があった。行政も安全確保の姿勢で頼りにならないと気付いた。具体的には「給水系がだめになると、深刻な炉心溶融事故が起こる」と警告も。すると実際に、そのタイプの事故が米国のスリーマイル島原発で発生した。
 世界の現状などから高速増殖炉の現実を見つめると、既存の原発(軽水炉)にない固有の危険性が浮かび上がってきた。チェルノブイリ原発事故のような暴走を起こしやすく、猛毒で核兵器の材料になるプルトニウムや、水と爆発的に反応するナトリウムを使う点などだ。
 開発の歴史をひもとくと、こうした固有の危険性に対する取り組みで、各国の科学に対する姿勢の違いが鮮明に現れた。
 「米国は早期に何度も深刻な事故を経験し、固有の危険性そのものを取り除こうと、研究を基礎からやり直し始めました。欧州は、潜在的な危険性をそのままにして技術の力でねじ伏せようという考えでした」。欧米が挫折する中、日本は欧州の手法で開発へ突き進む。
 本書の材料を国内外から集めると、高速増殖炉が技術的、経済的に極めて成立しにくいことが明白になった、という。「ほとんどの原子力専門家は、自分の担当する細部では最大限に頑張るが、トータルでは見られない。知っているのは一握りの官僚、学者、企業担当者です」。
 欧米各国が撤退した「現代版バベルの塔」に、なぜ日本が固執しつづけるのか。
 「結局、資源や科学技術の問題だけでは、説明できない。そこに目を向けてもらおうとしたのも執筆の動機です」(大)

『毎日新聞』1994年6月27日付

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次 


書評6
「もんじゅ」の臨界と科学者の責任
小林浩夫

 「もんじゅ」が臨界に達しました。日本の潜在的核武装能力だけにしか意味がなさそうなこの計画も、惰性で行きつくところまできてしまいました。長良川河口堰同様、官僚の面子と寄生する企業の思惑が、無意味な計画を延命させてきたといえます。もちろん、つまらない幻想をふりまいた御用学者連中の罪は大きいと思います。「もんじゅ」の臨界が三度延期の後、この4月にやっと達成されたことは、当初見積りの16倍にふくれあがった建設費とともに、無理を重ねての開発を示しています 1)。
 「もんじゅ」については運転差し止め訴訟が起こされていますが、原告側証人としてこれにかかわってきた小林圭二さん(京大原子炉)が、まとめとして「高速増殖炉もんじゅ―巨大核技術の夢と現実」を出しました。時宜を得て刊行されたこの本の紹介がてら、感想じみたことを述べてみます。

核暴走しやすい「もんじゅ」

 高速増殖炉(FBR)のもつ大問題は反応度事故(核暴走事故)、ナトリウム問題、増殖の実現可能性、プルトニウムにからむ警察国家化、核武装あたりに大別できそうですが、個人的には特に反応度事故に興味をそそられます。暴走しやすいFBR、地震に弱いFBRという指摘は、沸騰水型軽水炉(BWR)の事故論にこのところ執着している私にとって、また東海地震の震源域にある中部電力浜岡原発の反対運動にかかわっている私にとって、見過ごしにできないものです。
 BWR炉内は泡(ボイド)だらけですが、なにかの擾乱で反応度が上がっても、発生するボイドが中性子減速効果を下げ、反応度を減少させる方向に動きます。この特性を負のボイド効果と呼び、BWRは自己制御性がある、固有の安全性があると推進側は主張してきました 2)。しかし事故で冷水の注入や炉内圧力の上昇のようなボイドがつぶれる事象が起これば、この特性は逆に固有の危険性になってしまいます 3)。これは状況によっては負のボイド係数がそのまま正の反応度投入になるという話なのですが、FBRの場合、話はもっと直接的。小林さんの次の指摘は重要です。この場合、ボイド効果が正か負かは炉心の大きさによって決まり、「もんじゅ」で正か負かは公表されていない、原型炉である「もんじゅ」では炉の大きさから正である可能性が高い、もともと計算でボイド係数を予測することはむずかしく、実炉で計測することも危険でできないとするならば、解答は事故によってしかあたえられない、というのです。ナトリウム中のボイド通過によってフェニックスの出力が急落した事故はよく知られていますが、これは一面では出力急増(暴走)事故でもある、とも指摘しています。
 英のPFR(増殖炉の原型炉)が1987年に起こした蒸気発生器細管ギロチン破断についての紹介は貴重です。この事故は世間一般はおろか、原子力の専門家にも長い間隠されていて、いまでもほとんど知られていないということですから。
 FBR事故論に関しては、小林さんの指摘は想定されるすべての事故に及んでいるといっていいでしょう。特に細部の議論を取り分けて記した注記が役に立ちます。
 増殖炉が増殖の機能をもたず、単なるプルトニウム焼却炉に堕していかざるを得ない事情についても説得力のある記述がなされています。
 結局「もんじゅ」は原子力船「むつ」に続く壮大なる無駄になるでしょう。FBRにこだわるとしても、「もんじゅ」の一段階あとの実証炉では炉型がまったく変更されてしまうことになっているので、始めからやりなおすのと変わらなくなってしまいます。それ以上に、「むつ」同様、やがて計画そのものが撤収のやむなきに至るだろうという本質的な意味でも大変な無駄です。

物理学者の責任

 なぜ日本がFBRにこだわるかについて、小林さんは以下の3点をあげます。
1.推進側の真意の第一は肥大化した原子力産業のために仕事をつくってやること
2.産業全体の景気対策、国威発揚
3.潜在的な核兵器保有能力の確保。
 私の問題意識は特に1にあり、それも原子力で直接生活しているわけではない科学者一般の言動にあります。FBRにかぎったことではありませんが、原発推進のモティベーションは雇用の確保にあることは確かです。最も強固な原発推進が原子力にかかわる企業の労働組合組織であることはよく知られたことです。もし日本が前非を悔いて(?)原発からの撤収を選ぶなら、それこそ国策として雇用の手当てをしながらゆっくり舵をきっていくのでなければ、大変な混乱を引き起こすに違いありません。しかしそれとは別に、惰性で進められる原発推進の一要因に、この国策にのってきた科学者、技術者の言動の問題があります。自分自身の生活の糧を得るために原発推進にこだわるなら、まだ可愛げがあります。FBRが増殖しなくなっても増殖にこだわる関係者や、放射性廃棄物の消滅処理が誇張、いんちきであってもしがみつく研究者は、たとえ許すことはできなくても、生活がかかっているからという動機は理解できます。ところがそうではなく、学界での立場や仲間うちの利権を守るための発言や、そのように意図的ではなくても、反原発がもつ(と思っている)反体制の感触に反発を感じてか、論理を無視した感情的な発言を安易に繰り返す人は結構多いのです。ここでは「原発に反対する人は冷蔵庫や洗濯機を使うな」という宇野元総理と同じ次元の、高名な物理学者の発言の例をあげておきましょう。「日本のみの現象ではないが、原子力というとなんでもかんでも反対する人がいる。放射能というとこわがる人も多い。そのくせ歯科や病院でとられるX線写真は平気であるし、ラジウム温泉は有難がって入る。どうも原子力反対には感情的な面があると思う。」 4)。この人の発言が原発立地点で推進側によって利用され、地元の人を悩ませたことを知っている私としては、特権的立場にいる人と地元の生活者の立場の隔絶に愕然とするしかありません。
 「科学・社会・人間」が「『物理学者の社会的責任』サーキュラー」という副題をもっていることを考慮して、対象を物理学者にしぼるとすれば、30年前、私が物理学科の学生だったころ、放射性廃棄物のことを気にかける物理学者はいなかったことを思い出します。原子力が現実の工学になるにつれて、物理学者は原子力技術から手を引き仕事は工学者に移っていきましたが、その後現場で放射性廃棄物が深刻な問題になっても、別に物理学者が層として動き、対処を考えることはありませんでした。少なくとも、一時はバラ色の幻想をふりまき、その後問題が出てきたら投げ出してしまったことについての反省はなければならないのではないか、それぐらいの節度はあっていいのではないかと思います。もっとも幻想を積極的にふりまいたわけではないといういいわけもあるでしょう。しかし幻想がはびこるのを積極的に阻止しようとはしなかった責任は免れないのではないでしょうか。鉄腕アトムと物理学者が原発をつくったというのは、なかなかのジョークではあります。

堕落しないためには

井野博満さんがいうように 5)、「19世紀以降の科学は、『俗』(=産業)に奉仕するために組織され、体制化されてきた。天才でも大金持ちでもないわれわれが科学技術に従事できるのはその結果でしかない」のは冷厳な事実です。貴族の余技として科学技術があった時代ならともかく、給与生活者としての科学者、技術者は給料、地位の問題がまず頭にあり、極端な場合はデータのねつ造も出てくるでしょうし、つまらない仕事も論文にしたり、特許を申請したりもするでしょう。職業としての科学者、技術者が大量に登場したときから堕落が始まったことは否定しようもありません。
 俗に奉仕するために体制化されると、堕落していること自体にもなかなか気づかなくなってしまいますが、そこから抜け出すための方策は何かあるでしょうか。私は草の根の運動(基層民衆の運動)のどれかひとつに参加して、そこから学ぶしかないと感じています。もちろん学者先生として参加するのではなく。
 市民運動、住民運動のなかにも権威主義ははびこっています。しかし、そのなかで権威主義を極力排除する努力をし、すべての労働を均等に引き受け、遠慮なく批判し、されることによってなにかが見えてくると期待しています。言うは易く、行うは難し、ではありますが。


1) 反原発新聞194号(1994.5.)によれば
1970年(調査申込時) 360億円
1985年(本格着工前) 5900億円
2) ボイド反応度係数が負だから軽水炉は安全、チェルノブイリ2号(RMBR)は正だから駄目というなら、正のボイド係数をもつFBRはつくってはいけない。推進側はそのことはほほかぶり。
3) 小林浩夫:「技術と人間」1992年9月号、10月号
4) 有馬朗人:「日本原子力学会誌」1994年1月号
5)

井野博満:「科学・技術・人間」47号(1994.1.)31頁

『科学・社会・人間』1994年6月30日発行 1994年3号(通算49号)

書評1 書評2 書評3 書評4 書評5 書評6 目次