書評

森と里の思想


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書評1
アイデンティティと志

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 瓢鰻亭主人・前田俊彦と高木仁三郎の『森と里の思想』(七つ森書館)を読んだ。永年『瓢鰻亭通信』の愛読者なので、米をつくるのではなく田をつくるのだとか、論理と道理を区別しなければならないとか、瓢鰻亭哲学の基本は私にはおなじみのものだが、この本では高木仁三郎が対談相手となれ合わず、鋭く切りこもうとしているので、それを切りかえす瓢鰻亭説法に意外な新鮮さを感じさせられる場面がしばしばあった。
 例えば高木がアイデンティティーということばを使って、大衆が都会の中流意識に自分を同化させてしまう傾向を問題にするところで、前田はこう切りかえす。
「あのね、さっきからアイデンティティーということをしきりにいうけれども、私はそれを日本語で志といいたいのです。つまり、人には志というものがある。自分がなにものであるかということは、自分はどういう志をもっているかということで、その志を自分で確かめるということは自分で自分を見るということでしょう」
 その志を自分の外側の大きなものがうばいとることが、高木のいいたかったような状況を生むのだと前田は説明するのだが、ちょっとひきこまれてしまう。
 人間が何者にもその志をうばわれることのない、自立した生活を築ける場所が里なのだということが瓢鰻亭哲学の核心だが、読みながら守田志郎を思いだした。実は農文協の人間選書で復刊される守田の『農法』の解説を書いたばかりである。守田も農業の問題を追いながら、自立した人間の生活の立つべき場所としての部落(むら)という思想にたどりついている。どちらも自分の提示する里あるいは部落を、行政区画としての村とは区別されるものとして主張している点も共通である。
 守田にしても前田にしても高木にしても、高度成長末頃から始まった工業文明批判の潮流が、農業を手がかりにして自然と人間の関係と、そこに築かれるべき未来の生活の展望を見いだそうとしてきた仕事から、私は多くを学んできた。しかし、私自身の志をいうと、私はあくまで工業の側に足をおきながら、これらの思想と緊張を保って行きたい。
「農者は天然に人間の労力をストックする。つまり田をつくるということは、田に労力をストックする」
ということだと前田は語っているが、この論理(道理というべきか)を一歩進めれば工業となることに、私はこだわらずにはいられない。

(中岡 哲郎・大阪市立大学経済学部教授)
『エコノミスト』1986年11月18日号 読書ノート欄より

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書評2
どぶろくから宇宙まで。
大地に根ざした人の志

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 前田俊彦さんが亡くなられてから3年半がたつ。その前田さんとの対談を一冊の本にまとめたのは、もう10年も前、チェルノブイリ原発事故の年だ。事故への対応の忙しさをぬうように何度か前田さんとお会いして話し込んだこの対談の日々が、私にとっては一生の記念すべき思い出になっている。
 親子のように年も違い、歩んできた道も分野もまるっきり違ったが、なぜか初対面の時から親しくしていただき、折に触れて、いろいろな話を伺うことができた。とくに、私のような自然科学の論理になじんできた(毒されてきた)人間にとっては、前田さんの発想や議論の展開は思いもよらぬことの連続で、啓発されることが多いと同時に、もひとつ得心できない点も少なくなかった。
 そこのところを突っ込んで議論しようということで行なわれたのが、この対談だ。その時、私自身は、食品の放射能汚染をどうするかというようなことを目先の切迫した問題として抱えていた。しかし、この対談では卑近なことよりも、原発事故が生み出される根底にある思想や文化の問題をじっくり語り合おうということになった。
 内容は、「稲を作るのでなく田をこしらえる」「論理ではなく道理を」「人のアイデンティティーとは志のこと」「自然と天然の違い」「森と里の思想」など、独特のキーワードを駆使した前田さんの持論の全面展開の場となった。
「道理」とか「志」と言われると、なるほどと感心する反面、独りよがりではないかというところがある。この対談ではそのあたりを前田さんにしつこく食い下がった。
 当時は少し浮き世離れした議論だという批判も受けた。それから10年の間の内外の政治社会の変化は我々の予想を超えたものだが、最近の世相を見ると、政治家が徒党の組み方の術だけで動いていく「志の低さ」が目立つ。この本の中に一貫する前田さんの志の高さは、その現状を鋭く衝いて、今こそ輝いているように思えるのだがどんなものだろうか。

(高木仁三郎)
『週刊金曜日』1996年11月15日号

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