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共感呼ぶ実践者の対談
「生活に満足していますか?」ときかれた時、私たちは、所得が多いことだけでなく、健康、自由な時間、よい人間関係など様々なことを思いうかべる。
それなのに「社会」のこととなると、日本人は一転して「経済大国」に満足する。「経済大国から生活大国へ」というかりそめの約束も、最近は「国際化」という目標に変わり、それはいっそう激烈な生存競争をかきたてている。
経済大国とは私たちの思想の貧しさを語るものなのだろうか、それとも、あきらめを―。
そこで、「生きる場からの運動」という副題のついた本書を取りあげることにしよう。
この本は、「自分の生き方と学問研究との一致」を望んで大学を去った2人の研究者の、四回にわたる連続対談の記録である。
研究者として、市民として、また実践運動家としての体験から語られる言葉は、一億総投機現象の中に浮足立っている人びとにも、しみじみとした人間としての共感をよび起こす。それは、本当の経済とは、本当の技術革新とは何かを問いかけて、私たちの心に覚せいの涼風を送り込む。対談者は言う――。
現代の社会は、はっきりした敵や目標が見えにくく、相対的に安定した社会なので、人びとはどこかに不安を感じながらも、現状を守ろうとしたりあきらめたりしている。しかし、このあきらめは「体制側が巧みに組織的に作り出した状況」でもある。
たとえば、経済価値の前には国家も無力化して、経済界は農業も地域社会も「もういらない」と言っている。そして労働組合は初めから、われわれ(われわれ、の上に傍点)の一部としての私(私に傍点)しか考えず、私(傍点)の意見や感情を重ね合わせて足腰の強いわれわれ(傍点)を作り上げていこうとしないから、際限なく組織を大きくして「連合」となり、場合によっては経営者ともくっつきかねない形で弱さを支えている。
かつて高度成長期に、暮らしの向上を願った暮らし派は、企業と一体となってモノカネ優先主義の基礎を作った。そこでは自分の暮らしがよくなることと、社会をまるごと(まるごとに傍点)肯定することはひとつになっていた。
しかし、生活の質を問う、現在の「本来の暮らし派」は違う。私(傍点)の生活から出発してわれわれ(傍点)にいきつこうとする市民の運動は、学者ブレーンやグループが特定の政策を作って「はい、これが私たちです」と言っても受けつけない。
生活圏を包み込み、それぞれの主体がお互いを充実させていくような豊かな社会をつくるにはどうすべきか――この本を読むと、私たちもそれを語りあいたくなるのである。
(暉峻俊子・埼玉大学教授)
『朝日新聞』1988年3月13日 「ウィークエンド経済」欄より
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