はんげんぱつ新聞 縮刷版
第4集[241号―300号]

原子力資料情報室 編
定価4500円+税
B5版 並製 296ページ
2003年刊
ISBN 


『はんげんぱつ新聞』創刊25周年、300号を迎えて
深江 守(脱原発ネットワーク・九州)

『はんげんぱつ新聞』の四半世紀
天笠啓祐(市民バイオテクノロジー情報室代表)

年表・本縮刷版掲載の主な出来事

原発おことわりマップ

日本の原子力発電所一覧

索引(地域別索引、事項別索引、シリーズ記事・その他)

はんげんぱつ新聞 縮刷版(241号〜300号)

風車(はんげんぱつ新聞1号から240号の中から49編を再録)

ホンネ・タテマエ・つよがり・よわね(原発「推進者」の発言から)


『はんげんぱつ新聞』創刊25周年、300号を迎えて
深江 守(脱原発ネットワーク・九州)

『はんげんぱつ新聞』が2003年3月で300号を迎えた。1978年三月に0号が発行され、同年5月に1号を発行し、以来、1月も休むことなく300号を迎えたことになる。創刊から25周年、300号を記念しての『縮刷版第4集』の刊行である。
 最初の縮刷版は0号から100号(86年7月)が収録されている。79年3月のスリーマイル島原発事故、86年4月のチェルノブイリ原発事故などがあった。縮刷版第2集には101号から160号(91年7月)までの5年分が収録された。89年1月の福島第二原発3号炉の再循環ポンプ破損事故や91年2月の美浜原発2号炉の蒸気発生器細管破断事故などがあった。縮刷版第3集は161号から240号(98年3月)までの7年分が収録された。95年12月の高速増殖炉もんじゅのナトリウム火災事故や97年3月、動燃東海再処理工場アスファルト固化施設での火災爆発事故などが続発し、原子力の安全神話は崩壊。96年8月には巻町で、原発建設の是非を問う全国初の住民投票が実施され、民意は原発建設に反対であることをはっきりと示すことが出来た。
 今回の縮刷版第4集は241号から300号(2003年3月)までの5年分である。まさに原発の終わりの時代が見え隠れする5年間と言えるだろう。いくつかの事象ごとに追ってみる。
 95年の「もんじゅ」事故により、軽水炉でプルトニウム燃料を使用するプルサーマル計画が浮上した。97年1月時点の計画では、99年に二基、2000年に二基の原発で実施し、2010年までに16〜18基の原発で実施される予定であった。その計画が完全に頓挫している。きっかけは、高浜原発3号炉のMOX燃料の品質管理データに捏造の疑惑があることが内部告発により明らかとなったことによる。99年9月、関西電力は高浜原発3号炉でのデータ捏造の事実を認めたが、この時日本に向け輸送途中にあった高浜原発4号炉、福島第一原発3号炉用のMOX燃料については問題なしとした。公開資料を分析し、データ捏造を確信した関西・福井の市民グループが疑惑燃料の使用禁止を求める仮処分を申請。同年12月16日、追い詰められた関電は高浜原発4号炉用燃料にも不正があったことを認め、使用中止を発表。この勝利を大きな足がかりとして東電の福島第一、柏崎と追い詰め運動は大きく前進した。2001年5月にはプルサーマル計画の是非を問う刈羽村の住民投票が実施され、3・4世帯に1人が原発関係者という企業城下町で、村民は、国や東電の脅しをはねのけ、計画反対の意思表示をした。
 核のゴミ問題、原発の後始末の問題も焦点化してきた。98年、99年と高レベル放射性廃棄物処分懇談会、放射性廃棄物シンポジウムが全国各地で相次いで開催され、ゴミ問題がにわかにクローズアップされだした。99年6月には使用済燃料の貯蔵を事業として認める原子炉等規制法改正が行われ(施行は2000年6月)、原発の敷地外での「中間貯蔵」が可能となり、2003年6月、青森県むつ市が中間貯蔵施設の誘致を決定した。2000年5月には特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律が可決成立、同年、最終処分の実施主体である「原子力発電環境整備機構」が設立され、すでに最終処分場の公募を始めている。
 東海原発の解体工事が始まり、放射性廃棄物のスソ切り問題も浮上してきた。一定の放射能レベル以下の放射性廃棄物を放射性廃棄物として扱わないスソ切り処分の制度化は、解体原発から出る膨大な量の廃棄物の処分に困って出されてきたもので、2002年3月には「放射性廃棄物スソ切り問題連絡会」が発足。法案提出に先立ち、スソ切りを許さない全国的な活動を開始した。
 電力自由化の流れも加速した。日本の電気事業は、北海道から沖縄までを10の供給区域に分割し、一区域に一社の電力会社が独占的に電力を供給してきた。その独占体制に95年4月、小さな穴が開けられる。電気事業法が31年ぶりに改定され、一般の企業が発電事業に一部参入できるようになったのだ。99年5月の電気事業法の改正では「大口需要家への小売りの自由化」が認められ、2002年12月、総合資源エネルギー調査会は「2004年度に500キロワット以上の自由化を行い、2007年以降、全面自由化も検討する」とした電力自由化プログラムを公表した。電気事業へのコスト競争の導入は、原発の新設を事実上不可能とし、既設の原発すら運転を続けることを困難としている。
 経済産業省では原発への税金の投入や原発部門を電力会社から切り離し、国と地元自治体、地方企業が出資する第三セクター方式の原発運営会社の設立も検討されている。2002年8月に発覚した東電事故隠しスキャンダルは、こうした原発の抱える危機意識を背景としている。維持基準の導入がまさにそれであり、ひび入り原子炉を動かし続けようという国の原子力政策は、もはや末期状態に入ったと言える。
 99年9月、東海村JCO事業所で起きた臨界事故は、日本の原子力開発史上初めて二人の死者と多数の被曝者を出すという大事故であった。2001年11月、浜岡原発1号炉ではECCS系配管に溜まった水素が爆発するという前代未聞の事故と、圧力容器溶接部に亀裂が入り一次冷却水が漏れるという老朽化を想起させる事故が同時に起きた。
 勇気づけられる出来事も続いた。2000年2月、三重県知事による芦浜原発計画の白紙撤回や2001年5月の刈羽村での住民投票、11月、三重県海山町での原発誘致を問う住民投票での相次ぐ勝利が、脱原発への力強い追い風となった。
 そして2003年1月、名古屋高裁金沢支部は高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可は無効とする原告完全勝訴の判決を下した。国は時間稼ぎの上告をしたが、これにより日本の原子力政策、核燃料サイクル路線は完全に破綻したと言える。
 2003年4月、東電原発一七基全てが止まるという事態となった。全国で52基ある原発のうち、5月に三陸南地震で女川原発3号炉が自動停止した時点では、実に30基が止まっていた。原発が止まったままでも電気が止まることはないことを誰もが実感したに違いない。
 まさに原発の終わりがそこまで来ている。この流れを後退させないためにも、全国の運動をさらに強めていくためにも『はんげんぱつ新聞』の役割はますます重要になってきている。
 全国のみなさまの『はんげんぱつ新聞』への更なるご支援をお願いしたい。