脱原発シリーズ3 珠洲原発・阻止へのあゆみ 選挙を闘いぬいて 北野 進 著 |
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おもな内容 |
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はじめに 二〇〇三年一二月五日午前九時。関西、中部、北陸の三電力社長が珠洲市役所に市長を訪ね、珠洲原発計画の凍結を伝えた。事実上の断念である。計画浮上から二九年目、水面下の動きをふくめるならばじつに三五年以上もの長い年月を経たビッグプロジェクトが幕を閉じたのである。 昨年(二〇〇四年)七月一五日、珠洲市は市制五〇周年をむかえた。珠洲市がはじめて原発というものに接したのはいまから三五年ほど前、人間にたとえれば中学校を卒業する年頃のことである。原発に憧れを抱き二〇歳を迎え、二一歳になってからはただひたすら原発を追いもとめる日々となった。就職もせず、結婚もせず、気がつくと五〇歳である。 一個人ならば、それもひとつの人生と語るのもいいかもしれない。しかし珠洲市は、発足当時は人口三万八〇〇〇人を上まわるまちであった。それがいまや約二万人を割りこむところまできている。高齢化率は三五パーセントを超え、年間の出生児数は一〇〇人前後に落ちこんでいる。地域の行事が維持できず、文化の継承ができないきびしい数字である。 それ以上に問題なのは、長年、原発誘致による地域活性化という夢を抱いてきた行政の体質であり、住民の価値観である。ここ数年の市町村合併をめぐる論議のなかで、近隣市町村からは「珠洲市とだけは一緒になりたくない」という声が何度となく聞かれた。悲しいかぎりである。 二九年目にして計画断念の日をむかえたが、私はこの歳月を「失われた二九年」にしてはならないと思う。そのためには、なぜ半島の先端、きびしい過疎が進むこの田舎町が、このような対立の歴史を刻むことになったのか、その経過を記し、背景や原因を探り、さらにつぎの世代へなにを教訓として残せるかについて、それぞれの立場から思いをめぐらし、議論を深めることは避けては通れない道である。 ところが、市制施行五〇周年を記念して発行された「珠洲市勢要覧二〇〇四」を開いてみると、そこに記された「珠洲市のあゆみ」には珠洲原発についての記載が一切ない。「誘致決議」もなければ「凍結の申し入れ」もない。珠洲市のホームページにアップされた「珠洲市の歴史」も同様である。まさに歴史からの抹消である。長年にわたる原発誘致一辺倒の行政も許しがたいが、これは市民に対する二重の意味での重大な背信行為である。 七つ森書館の中里さんから、珠洲の反原発運動について書かないかともちかけられたとき、私は自分の能力を顧みず、ふたつ返事で了解した。反対運動がなにを考え、なにをめざし、どういう活動をしてきたかを少しでも残せればとの思いからである。 本書を書くにあたって、計画が水面下で動きはじめてから八八年の事前調査の申し入れまでは、私は運動にかかわっていないので、珠洲原発反対連絡協議会の総会資料や新聞記事、関係者からの聞きとりなどを中心にまとめさせていただいた。その後の動きについては、当事者の一人として、選挙の取り組みを軸に主な動きはほとんどカバーできたかと思う。しかし、そこにかかわった多くの人の思いは残念ながらごく一部しか盛りこむことができなかった。私個人の総括文書として読んでいただいたほうがいいかもしれない。 さらに、珠洲市が珠洲原発の歴史を葬り去ろうとするなか、本書では反対運動の歴史だけでなく、許すかぎり推進側の動きもフォローしたいと少々力んでみた。私自身の力不足もあるが、多くの関係者が亡くなり、また珠洲市が関係書類を一気に処分するというなか、残念ながら力およばずである。 しかし、珠洲原発の歴史、あるいは反対運動の取り組みを、系統立てて書いた書物はこれまでなかった。たとえ不十分であっても、珠洲原発の計画断念から一年が経過し、さまざまな立場からかかわってきた人、関心をもってきた人の記憶をよび覚まし、「珠洲原発」とはなんだったのか、あらためて考えるきっかけになれば幸いである。 なお、本書に登場する人名に対する敬称は、私がふだんつかってきた敬称をそのまま使用させていただいた。また、再三再四登場する「事前調査」「立地可能性調査」という表現については、基本的にはおなじ調査を指している。行政および電力会社が八九年市長選以降、意図的に表現をかえており、八九年市長選までは事前調査という表現をつかい、それ以降は立地可能性調査としていることが多い。また、会話のなかでは単に「調査」と表現していることも多いが、これもおなじ調査を指しており、ご了承いただきたい。 二〇〇五年一月 北 野 進 |