自律と協働、
はたらきがいをもとめて

大阪市現業労働者の60年

著者 鎌田 慧
定価 1800円+税
四六判 上製 356ページ
ISBN 4-8228-0513-1


    

第1章 大阪市従業員労働組合の出発
第2章 戦前の運動
第3章 現業OBが語る改善運動
第4章 大阪港ではたらく
第5章 清掃の仕事
第6章 コミュニティ労働 第7章 地下水道を守る
第8章 環境と健康をつくる
第9章 こころに潤いをあたえる
第10章 将来の安心のために


おわりに

 三年ほど前になるのだが、知人に紹介されて、「大阪市従業員労働組合」の 執行部のなん人かに会った。それぞれ四○代の若さには驚かされたが、話して いるうちに、気持ちが昂揚するを覚えた。
 というのも、わたしは、村や町にある自治労の労組は、地域のなかの「シン クタンク」として、地域起こしを率先して引っ張っていくべきだ、と考えてい たし、自治労の集会に呼ばれたときなどは、そう発言してきた。
 さらにわたしは、労働運動が、賃上げや労働条件の改善だけに終始してい て、労働の内容について考えることがなかったため、極端な話、仕事はどうで も賃金さえあがればいい、という退廃をもたらし、それが労働運動を空洞化さ せた、とかんがえていた。まして、「地方公務員」の存在は、日々の仕事を通 して、地域に貢献することなのだから、職場ではたらくことは、地域でいかに 生きるか、と重なりあうことになる。
 いかにはたらくか、それはいかに生きるか、との追求でもある。自治労の運 動は、労働運動でありながらも、それは地域起こしの実践であり、地域文化の 拡大と創造である、ともかんがえていた。
 ところが、わたしは、まったく無知だったのだが、大阪市の現業労働者の組 織である市従労組は、すでに地域のなかで、労働組合になにができるか、なに をすべきか、という命題から、仕事の職務拡大と豊富化をもとめて運動してき た、という。それを知らなかった驚きと恥ずかしさが、わたしの気持ちを昂ぶ らせていた。
 わたしは、えっ、とばかり絶句し、どこが、だれが指導しているんですか、 と若い執行部に失礼な質問をしてしまった。が、それは、現場のなかから、日 々の労働のなかから、かんがえだされてきたことだったのだ。
 わたしが、地域における村や町や市の職員に期待しているのは、そのひとり ひとりの仕事が、地域の生活と民主主義の拡大に影響するからである。地域経 済を一挙に救おうとして、大工場や原発などの迷惑施設の誘致に鎬を削るの は、「企業城下町」にあることであって、民主主義は停滞する。そうではな く、ひとびとの地域のネットワークを組織化し、地域のひとたちの知恵を引き だし、ともに力をあわせるような運動にすれば、地域は動きだす。

 清掃、下水の現場、あるいは、屠場や病院の補助労働などの現業労働は、ど この自治体でも、市民生活をささえる「縁の下の力もち」である。だからこ そ、市民から差別され、蔑視されてきた。かつての身分は「臨時」、「日雇 い」だったし、仕事も汚れ作業の多い、「下層」「周辺」の労働として位置づ けられていた。
 だからこそ、戦前の困難な時代にも、いちはやく、労組が組織されて人間と しての誇りを主張し、戦後の出発もまたはやかった。市従労組の運動は、身分 確立の運動だった。戦後になってからでも、ながい「臨時」期間の短縮運動が あって、ようやく、正式職員になることができた。

 いま、「行政改革」の名のもとに、民間委譲と民営化、人員削減と賃金凍結 が推しすすめられようとしている。不幸なことに、この「国策」と「国益」に 利用されているのが、マスコミである。
 一九六七年、「都市交通の合理化」の名のもとに断行された、「都電撤去」 にともなう、東京交通労組(東交)少数派解雇反対運動のルポルタージュか ら、わたしはこの仕事をはじめた。そのとき、マスコミの都電にたいするキャ ンペーンは、「前近代の遺物」だった。都電は都市近代化の邪魔ものとしてあ つかわれ、撤去に反対していたわたしなどは、友人たちから怪訝な表情でみら れていた。が、いまはどうか。路面電車の復活が主張される時代となった。
 わたしは、自分の先見性を自慢しているのではない。そのとき、撤去に反対 する根拠として、環境問題や都市交通の弱者にたいするやさしさなど、いくつ かある論点をだすことができなかった不甲斐なさを痛感させられているのであ る。そのころのマスコミには、撤去反対論などまったくなかった。わたしの反 合理化論は、労働者の雇用と処遇の視点からの反対で、それに賛成した労組を 批判するていどでしかなかった。それが残念なのだ。
 その後の「国鉄解体」についても、わたしは、反対の文章を書きつづけた。 このときも、マスコミは、あたかも、「日の丸の旗」を打ち振っているかのよ うに、賛成一色だった。わたしは、民営化と労組攻撃が、大事故をもたらす、 と予測して書いた。それは「三井三池」炭鉱での大量解雇をめぐる争議のあ と、職場の抵抗勢力解体させられ、ものいえぬ職場となった「効率化」が、大 事故を招いた結末を取材によってよく知っていたからだった。

 大阪の現業労働者の「仕事と意見」を取材しているうちに、「大阪市役所」 は、スキャンダラスな存在とされるに至った。国鉄労働者がマスコミの槍玉に あげられ、まいにちのように書きたてられた。当時の、「カラスが鳴かない日 があっても……」の再来である。
 「大阪オリンピック」にあてこんだ、過剰な投資の失敗は、第三セクターの 危機にたいする市民の憤りが、職員への感情的な攻撃となっている。その批判 が、かつての差別労働から脱却するために積み上げ、いまでは時代にあわなく なった、 \厚遇 ≠ノむけられたのだ。それらは、冷静な議論によって、改訂で きるはずだった。すでに市従労組は、市職労や交通、水道労組などとともに、 「既得権」のほとんどを、すでに身ぐるみ剥がされた。それでも、なおかけら れている追い打ちは、採用凍結、人員削減、民間委託化などである。
 民間委託の拡大は、英国のジャーナリストが体験的に書いた『ハードワー ク』のように(二七七頁参照)、派遣、アルバイター、パートなど、身分不安 定な低賃金労働者を無限につくりだす。けっして、地域の民主主義をすすめる べき自治体がおこなうものではない。臨時から正社員へ、労働者間の差別撤 廃、同一労働同一賃金化、それが労働者にたいする平等と人間主義というもの である。
 それに反して、もっとも安易な方法としての、現業部門の切り捨てと臨時工 化、下請化がすすめられようとしている。が、現業労働者が、人間的にあつか われているか否かで、その都市の文明度が計られる。OECD(経済協力開発 機構)の調査によれば、雇用に占める公務員の割合は、日本は一五・一パーセ ントで、スウェーデンの半分である。フランスは二四・八パーセント、イギリ ス一五パーセント、アメリカでさえ、一四・五パーセントである。公務員の数 は、むしろすくないのが現金である。
 国と地方自治体の赤字は、為政者の失政によるものである。そのツケが福祉 の切り捨て、職員のリストラ、増税によって、住民におしつけられているのだ が、その「酷薄内閣」が支持されている。「痛みをともに」という政治家たち が、どれだけ、痛みを感じる生活をしているのか。
 「民間における非正社員化」が、公務員削減の目安にされる。会社はこれだ けやった。役所もそのようにやれ。規制破壊、雇用破壊、賃金破壊、そのあと が価値基準の破壊である。その先兵になっているのが、権力者の論理に疑問 をもたない記者たちである。中立を装っている自分が、どっちの側にいるの か、考えていない。
 戦後の労働運動が積み上げてきたものが、いま、ダルマ落としのように、そ の基盤が破壊されている。
 地域の民主主義の基盤としての自治体職員労組への攻撃はますます激しくな りそうだ。それに対抗できないのは、ほとんどの労組が、市民運動とのつなが りが弱かったからである。市民と労働者が対立させられているのは、保守勢力 の陰謀でもあるが、それが支持される状況をつくったのは、これまでの運動の 弱さである。
 大阪市従が「与えられた仕事への埋没」から、「市民とのふれあいの仕 事」、あるいは「市民のニーズをつくりだす仕事」へと積極的にむかった実践 は、「コミュニティ労働」と表現されている。わたしは、労働を豊かにし、人 間的な信頼関係を地域に築く、この果敢な実験を成功させたい、と考えてい る。

二○○五年一一月三日
  鎌田 慧

(書評1)
 本書は大阪市で働く現業労働者たちの組合「大阪市従業員労働組合」の運動を追ったルポルタージュである。戦後、彼らは過酷な労働状況から脱するべく、賃金差別・身分差別の改善を求めて立ち上がった。運動はやがて時を経て、賃上げや労働条件のみに固執しない、「地域のために何ができるか」を意識した「コミュニティ労働」へと結びついていく――そんな60年の歩みが描かれている。水道・清掃等の現場を取材し、彼らの仕事・生活・意見を数多くの写真とともに伝える。  市従労働のコミュニティ労働は、著者が訴えてきた労働運動のあり方の理想型でもある。自治体職員は日々の仕事を通して地域に貢献し、それは民主主義の拡大にもつながると考える著者は、利益・効率追求のために、行革や民営化によって公的部門の仕事が民間に奪われていく現状(とくに現業労働はその矢面に立たされる)を糾弾する。また、批判の矛先は政府だけでなく、旗振り役と化したマスコミにも向けられている。

「都市問題」 2006年4月号より



(書評2)
 「水の都」大阪は多くの現業労働者によって支えられている。川が多い都市らしく今でも対岸を結ぶ渡船が運行され、市民の重要な交通アクセスにとなっているが、ここを支えているのも彼ら現業労働者である。
 かつて彼らは単純労働に従事しているので「二号職員」と言われたこともあった。事務系の公務員である「一号職員」に次ぐ存在であるからだが、このような現実を乗り越え、自らの仕事に自信と誇りを持つために彼らは労働組合を結成した。そして阪神大震災を経験するなかで彼らは時代に見合った「新たな公務員像」を想像することの必要性を知り、コミュニティを支える労働者、市民の視点に立った街づくりを推進する労働者へと変わろうとしている。本書は彼らの仕事と意見を、彼らの労働運動の歴史ともども書き綴ったもので、これを読むと市民と市職員は敵対関係にあるのではないことがよく理解できるのではないか。

「出版ニュース」 2006年3月上旬号より



(書評3)
 小泉流構造改革のもとで公務員バッシングがつづいている。「しかし、それは庶民の感情のなかにある、公務員の身分安定にたいする羨望と自分の使用人意識とが奇妙にからまわっているこころの暗部につけ込んだ、卑劣なやり方である」と鎌田慧は指摘する。
 大阪市の現業労働者の60年間の組合活動を歴史と現在を往還し、自律と協働、はたらきがいという視点から描いたのがこの本だ。例によって、鎌田はしつこいくらいの聞き取りと、書物をひもとくことで、さまざまな事実を明らかにしていく。たとえば、労働者自身の発想から、ここへ連絡すると何でも対応できる環境事業センターを創設したこと。職業差別の解消と生きがいをもつ仕事ということで、みずからの労働強化につながっても、現業管理体制をつくり、ふれあい運動を展開していること「ひとにやさしい住みよいまちづくり」が役所で働く労働者の目標であるなど。
 「行政改革」へのたしかな批判の視点と、地域が動き出すための力がこの本にはある。

「解放新聞」 2006年2月27日より



(書評4)
 清掃、下水処理、病院での補助労働など、生活を支える公務でありながら、3Kとも言われる現業労働。しかしそこには、市民の暮らしとふれあいながら、ニーズをつくり出す、「コミュニティ労働」の原点がある。大阪市従業員労働組合の地域起こしの実践を例に、市民と労働者のつながりが不可欠だと説く、渾身のルポ。

「読売新聞」 2006年2月1日夕刊より