ピープルの思想を紡ぐ

著者 花崎皋平
定価 2000円+税
四六判 上製 200ページ
ISBN 4-8228-0615-4


    

 

まえがき

第T部
第一章 現代日本のナショナリズムと宗教
第二章 現代日本の民主主義の明暗
      社会領域での漸進と国政での逆行
第三章 田中正造と現代
第四章 反グローバリゼーションの哲学のために
     カレル・コシークの思想から
第五章 「田を作る」     地域に根ざした抵抗と創造のつながりを

第U部
第六章 現代アイヌ民族史の素描
第七章 知里幸恵とアイヌ民族の詩人たち
第八章 『上西晴治短編全集 ポロヌイ峠』を読む

初出一覧


まえがき

 本書は、読んでいただければわかるように、現代日本の政治・思想・文化の状況に対するつよい違和の念に貫かれています。いたずらに声を張り上げても空しいばかりだと思いながらも、ついつい身の程を顧みず、こんな世の中には我慢できないと声高になってしまいます。
 敗戦後六〇年を経て、この国はまた脱亜入米の道を突き進んでいます。ネオリベラリズムを信奉する政治経済の運営で、社会のきずなはずたずたになり、すさんだ世相が日々報じられています。
 二〇〇六年の年賀状には、こんなことを書きました。
 田中正造一九〇九年八月二四日の日記に「困苦、貧苦、節義、言行一致、主義貫徹に対する困苦艱難が…経験の度数の数十百回ニ達して、百戦百敗、その研磨に得たる自得力堅忍となりて、夫れより発動せる以上の良知良能の付合せるにあらざれバ…時勢を造る人とは云へず」とあります。この「百戦百敗」の思想こそ、今日、私たちが堅持すべき思想ではないかと思っています 。
 田中正造はまた、「余は、最弱を以て最強に当たるをもってよろこびとするなり」とものべています。私は、ここ三〇年ほど、田中正造を仰ぐべき先達としてきましたけれども、近年ますますかれが慕わしくなっています。人間存在の低みに向かうことこそが、もっとも豊穣な世界を知ることであるように思います。
 二〇〇五年秋に、東京で、水俣フォーラムの講座に招かれたのを機会に、石牟礼道子さんの、いま刊行中の全集をひもといていて、次のような一節に出会いました。
 「もういちど自分を無にして、自分を低くして、この世で一番低いところに自分を置いて…目線を低くして…ずっと山川を見直してみる」
 もっと低みへ、という、この呼びかけに呼応したいです。
 こうした石牟礼さんや沖縄の安里清信さん、前田俊彦さんなどが考え、語り、書いた日本の民衆思想に目をこらし、ピープルをキイワードに、その潮流を活性化させることを、これからの仕事の一つとしようと思っています。そうした思想に導かれつつ、私が、いま、なにをしようとしているかは、第五章の「田を作る」を見てください。
 アイヌ民族運動への関わりも、引き続き大事にしていくつもりです。アイヌ民族の戦後史では、農地改革という戦後民主化の重要な構造改革が、アイヌにとっては差別と抑圧の上塗りであったことがわかります。敗戦後日本社会の民主化をいうとき、アイヌ民族の置かれた状態やハンセン病療養所で暮らす人びとの処遇を視野に入れないと上滑りになります。
 現代の芸術家のなかで、私がもっとも尊敬し、その作品を愛する富山妙子さんの絵で、装丁をすることを許していただけたことは望外の喜びです。
 かたい本が売れない時代です。そういう時代の中で、まして時代の進んでいる方向に逆行する私の本などを出版してくださる七つ森書館の中里さんに深く感謝します。中里英章さんとの関係は、著者と出版主という関係にとどまらず、新東京国際空港(成田空港)建設反対の三里塚農民への連帯運動、そして故高木仁三郎さんとの交友、高木さんの著作集の編集、出版など、同時代の運動と仕事を共にしてきた同志友人の関係でもありますので、親愛の念をあらたにしています。

  二〇〇六年一月
   花崎皋平

(書評1)
 アイヌ民族の復権など、地域に根差したさまざまな市民運動にたずさわる著者の評論集。現代の日本社会に広がるナショナリズムについて批判的に検証する論考、国家ありきの国家中心主義に抗するためにどのような理念を掲げ、それをどう創造的に実践していくかに言及した書き下ろし、アイヌ問題考察のための資料となる現代アイヌ民族史を的確にスケッチした文章などを収録する。

「東京新聞」 2006年4月23日より



(書評2)
 本書に収録された『上西晴治短篇全集 ポロヌイ峠』書評を読むとき、いまも雪に埋もれる北海道の雰囲気がたちのぼってくる。連想はたとえば、上西文学の舞台、十勝ならば十勝川の流れに至る。
 春は川からやってくる――。短篇のなかの「川は自分の生命そのものであった……」のくだりにふれて、著書は「こういう風景の描写に接すると、私には北海道の春の野山がかもしだす生命力に身を浸した経験がよみがえる」と書く。アイヌ民族の暮らし、土地と労働、生活のいとなみが生みだすイメージが、書評からも伝わってくる。
 物語を流れる執拗低音は、和人のアイヌに対する差別であると著者は指摘する。和人の差別が、アイヌをどこまでも追いかけて、生活のあらゆる面で痛めつける様子が繰り返し描かれている、と。それは作り話ではない。そこには、和人による差別に対する告発がこめられるが、それだけではないと著者はいう。物語には叙事的な、それでいて自然や生命のひろがる豊饒なイメージをたたえた、オペラを髣髴させる完成の世界がくりひろげられるのである。
 感性の基盤。アイヌの伝統と文化に触発されてきた著者がいう、ここでのもっとも喫緊かつ重要なテーマは、そのことだと思える。それゆえ、たとえばアイヌの伝統や文化にはぐくまれた詩や物語を切りさいなむ、カルチュラル・スタディーズの影響下での言説分析を、著者はその感性の基盤において批判している。
 「芸術の発展は、侵略、支配、抑圧がたえず繰り返される歴史のまっただ中で、苦しみながら、人間としての内心の声を発し、支配者、抑圧者の表現媒体を利用しながら、人類に普遍的に通じる感情や思想の表現を想像してきたのではないでしょうか」。
 そうした感性の基盤の貧困化は、ひとつ学説やアカデミーの問題のみにとどまらない、普遍的な現代文化の問題であり、病理であるといえる。それは実は、サプシステンスの危機と無縁ではない。むしろ生活の維持、存続がこの社会において局所的、偏在的に脅かされ、それでいて他方、ITバブルはいうにおよばず、グローバリゼーションの「勝ち組」に連なる強固な領域との隔絶、非同時的同時性がいっそう強まる今日の、それは最大の危機である。
 本書で論じられるカレル・コシークの思想は、グローバル化されえない自由な主体が、グローバリゼーションの趨勢に対して問いを発し続ける思想を触発する。それは、西洋近代の啓蒙主義と二十世紀の文明が行き着いた技術化と世俗化に抗し、ヨーロッパの文化と伝統を根本的に批判・継承するなかから生まれたラディカルな思想である。
 著者のいう「ピープル」の生活世界や労働のなかに、感性の基盤を置き、国家に向かい包摂されるのではない伝統を生かしていく。それは反グローバリゼーションの哲学、そして民衆知に根ざす思想のありかたをゆたかにする。そこにピープルの思想がはぐくまれるのだと思える。

「図書新聞」 2006年4月22日より



(書評3)
 〈現代日本の政治・思想・文化の状況に対するつよい違和の念に貫かれて〉語り、行動し、書き続ける哲学者・花崎皋平の講演や論考。〈日本人以外の他者の立場に立てない。自分中心主義から抜け出せない。それがナショナリズムに対する批判の力を国民的規模で養いきれなかったことなのではないか〉〈私は長期的な見通しを立て、抵抗のネットワークをしっかりと保持し、堅忍持久の態度で時勢の転換に対処することを方針としたい〉〈ピープルであろうとし、生存基盤に根を張ろうとする営みは、人を普通人という意味での百姓に近づけます〉日本の近代思想の中で風穴を開けた田中正造に思いを馳せ、アイヌ民衆史から自立の思想を説き、地域と農の復権を通して、グローバリゼーションへの対抗の論理を打ち立てる。ナショナリズムの台頭に抗する批判精神のあり方から民主主義の原理まで、怒りとパトスがあふれる民衆哲学が明快に。

「出版ニュース」 2006年4月中旬号より



(書評4)
 ピープルネス」と「田を作る」という、あまり目にしたことのない言葉が、この本のキイワードだ。「ピープルネス」は著者である花崎さんの造語、「田を作る」は1993年に亡くなった実践家・思想家の前田俊彦さんの「百姓は米をつくらず田を作る」からとったもので、著者たちが始めた新しい運動の名称でもある。もうひとつの柱は田中正造の思想と生き方である。
 私には「人間そのもののあるべき姿」があるかどうか、よくわからない。しかし、「人間の中に神様を見た」と思うことがあるのも事実だ。それは、おそらく著者がいう「人間存在の低み」に立つピープルの姿にふれた時なのだろう。  このようなピープルの姿を歪め、地域や環境を破壊し、戦争を起こし、人びとを支配してきた国家権力とナショナリズムに対しての強い怒りも、この本を貫いている。
アイヌ民族の現代史を概観し、知里幸恵やバチュラー八重子、上西晴治の作品を紹介する第・部は、著者の長年のテーマだけあって面白く読める。とくに「現代アイヌ民族史の素描」は、これまであまり類がなく、アイヌ史を考える際の基本となるだろう。
「ピープルネス」は人にとってめざすべき究極の姿である。そして、歴史と文明を根本から見直し、「民主・無縁・無所有」の原理を復活させるための新しい理想の言葉でもある。花崎さんは、希望が見えない時代にあって、あえて大きな理想を語り、そこへ向かうための超長期的(数百年か?)な運動として「田を作る」を提起する。ここに在野の哲学者・実践家として生きてきた著者の真骨頂がある。

「北海道新聞」 2006年4月9日より



(書評5)
 「本書は……現代日本の政治・思想・文化の状況に対するつよい違和の念に貫かれています」。本書はこのような言葉で始まる。「まつろわぬ」ことの表明である。「まつろわぬもの」、それは坂部恵の定義によれば、「秩序のあらためての『聖別』としての『まつり』に参与せぬもの」のことである。「まつろわぬ」ことが、時代の巨きな濁流に抗しえず「空振り」し、メッセージを届けるべき次の世代に「そっぽを向かれ」ても、それでも声を張り上げる、そんな宣言である。
 眠ってはならない、みなが寝入っているあいだにこそ問わねばならない、そんなミネルバァの梟のような想いが、著者のこれまでの「オルタナティブな思想」を駆ってきた。オルタナティブには言うまでもなくさまざまな形がある。その形は増殖すればするほどよい。著者のそれも増殖をくりかえしてきた。
 著者がここで対抗すべき巨きな流れとして引きずりだすのは、ナショナリズムとグローバリズムだ。それに対抗的に立てるのは「ピープルネス」と「サブシステンス」の思考である。
 講演録が中心になっており、現場の声というより骨太のやや大ぶりな言葉がめだつが、運動を増殖させる過程で共振した別の骨太の声を深い敬意とともに引いているのでそれを引くと、ピープルネスとは石牟礼道子のいう「ごくごく小さなものの中に生きる思いや優しさ、威厳を見つけていく方向」であり、サブシステンスとは滝沢克己のいう「人間共通の低みに立つ」思想であり、安里清信のいう「生存基盤に根を張る」生き方だ。
 アイヌ民族の詩を論じ、コモンズ(共有財)の保全運動を論じ、田中正造の思想を論ずるなかに、所轄庁による「認証」ではなく、市民が、あるいは当事者自身が「公益」かどうかを判断し選択する、そういう「水平的な自治、分権、協同、共生」の運動に与してきた著者の半生が折り重なる。彼にとって、「地域」も「共生」もけして融和の場所ではなく、〈触発〉と〈闘い〉の現場だったことが、隠しそうにも隠しえない苦々しさをまじえて書きとめられている。

「朝日新聞」 2006年3月19日 [評者]鷲田清一



(書評6)
 日本の民衆思想に目を凝らし、その潮流を活性化させることを自らの仕事と考えている著者が本書で取り上げているのは、田中正造であり、知里幸恵であり、アイヌ民族の詩人たちである。その前段として、日本の現状分析がナショナリズム、宗教、民主主義などに関連して述べられている。

「週刊金曜日」 2006年3月10日号より