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実相 日本共産党の査問事件
油井喜夫 著
『汚名──日本共産党のソフト路線は本物か』『虚構──日本共産党の闇の事件』に続く第3弾! |
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序章 明かされた新事実 新日和見主義事件とは 事実を、事実として明らかにすること 第一章 なぜ、いま「分派活動」が 偶然、出版計画を知る 後編が先で、前編が後 分派活動の驚くべき事実 共産党との共通性──十把一絡げ 系統的な分派的研究会 川上の本と私の本の違い 市民感覚と党員感覚 処分した側とされた側の曖昧という共通性 複雑な影を落とした本 第二章 被処分者の年一度の集まり 一五年後の新日和見主義事件前史──私の場合 一五年後の新日和見主義事件 知らされなかった出版計画 集まりの雰囲気・傾向 三五年間も分派活動を秘匿 気分的な違和感が相違点へ 第三章 シンヒヨの会の推移 一九九四年──共産党の批判文献の検討 党史から消えた新日和見主義事件 二〇〇〇年──突如「会」の改組を迫る 二〇〇二年──福岡の未解決問題 分派主義の暗部 二〇〇三年──党中央へ新日和見主義事件の見直しを求める提案 処分歓迎、名誉回復無意味という意見 第四章 新日和見主義の人脈と起源 共産党に対する確信的対抗 路線問題、分派形成──民青本部と地方の違い 赤旗の『査問』批判 「左」の日和見主義という規定 中心人物の最も奥深い結論 新日和見主義の人脈と起源 (1) 民青本部 (2) 川上徹と宗邦洋 (3) 広谷俊二と川上徹 (4) 学生運動・全学連 (5) 時系列で検証 第五章 川上徹の軌跡 川上徹の関心 正当防衛、ゲバルト、軍事化と新日和見主義のインセンティブ 新日和見主義事件の火種は東大闘争のなかに 川上徹の学習・研究 (1) 五項目のテーマ (2) チリ革命 (3) ドイツ社会民主党 (4) 青年同盟問題 「解放区」=民青会館で何が…… 終 章 事件被害者の妻たちへ 二重の被害者 四つの提案 事件被害者の妻たちへ |
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一 新日和見主義事件とは 民青(日本民主青年同盟)は日本共産党の青年層を対象にした外郭団体であり、事実上の下部組織である。新日和見主義事件は一九七〇年代初頭、民青に起こった有名な「反党分派」査問事件である。主たる舞台は青年学生運動のなかにあったが、他の分野にも広がった。三五年以上の党歴を有する共産党員ならほとんど知っているだろう。 当時の民青は全国の職場、地域、学園に二〇万近い組織を擁していた。全学連も数十万の学生を傘下においていた。当時の民青は沖縄の即時・無条件・全面返還闘争や学園民主化闘争、労働組合や学生自治会などで青年学生の要求にもとづく活動や文化活動など、意気込み高く活動していた。 新日和見主義事件は共産党の提案した民青の対象年齢を二八歳から二五歳に引き下げる方針が、民青中央委員会内の党員会議(一九七二年五月七日)で通らなかったことが端緒だった。党最高幹部は、この事態を他国の共産党とも繋がった秘密分派による仕業と判断した。党本部の対処の仕方はきわめて迅速だった。会議の翌日から「被疑者」を次々に摘発し、厳しい査問を開始した。 事件発生直後の一九七二年五月九日の共産党幹部会声明「日本共産党創立五〇周年記念の歴史的な党躍進大運動に全党員は立ちあがろう」(「赤旗」)は次のように述べている。 国際共産主義運動の一部の干渉者と盲従・依存分子は、青年学生運動のなかに党への不信と中傷をうえつけている。 ・策動方法はきわめて陰険でこうかつ。 ・党は反党分子と非妥協的闘争を行なう。 この種の批判や論評がしばらく続いたあと、「赤旗」や『前衛』などで理論問題に関する辛らつな非難が始まった。新日和見主義が、綱領論的にはアメリカ帝国主義美化論や日本軍国主義主敵論を主張し、闘争論的には政治闘争や思想闘争を軽視した大衆闘争唯一論の立場にたつものであって、トロツキストに通じる「左」の日和見主義であると規定し、論難するものだった。 共産党は宮本顕治幹部会委員長の指揮のもとに厳しい査問や調査を続行した。処分は民青幹部にとどまらず、共産党中央委員や他の大衆組織の幹部、評論家のなかにも広がった。処分に至らなかったが事実上運動から追放された人、査問・調査された人まで含めれば、膨大な数にのぼるだろう。 私は当時、共産党静岡県委員、民青中央委員・同静岡県委員長の役職にあった。処分により、それらのすべてを罷免され、党員権も停止された。 二 事実を、事実として明らかにすること 私は新日和見主義事件をテーマに『汚名』(一九九九年、毎日新聞社)と『虚構』(二〇〇〇年、社会評論社)を出版した。 『汚名』は急性肝炎で入院していた病院から呼び出しを受け、共産党本部に閉じ込められて査問された実際体験を綴ったものである。処分場の様子や処分がどのように行なわれたのか、事件は見直されなければならないこと、共産党の体質の実態や改革の方向性などにも触れた。 『虚構』は査問体験から一歩進めて理論問題に焦点をあて、日本共産党が何を新日和見主義とし、それをどのように批判したか、それらの解明を試みたものである。共産党の批判は当時の情勢論や、綱領上のテーマから青年同盟論・学生運動論・労働組合論・党建設論に至るまで、広範な理論的・実践的問題を含んでいた。 事件の特異性は、被処分者の反論が当時まったくなかったことである。宮本顕治の言葉によれば、ふたばのうちに摘みとった事件でありながら、党の批判文献は紙誌にとどまらず、単行本を含め、膨大に蓄積された。しかし、それらは被批判者の名前も出典も明らかにされない不思議な文書であった。そのため、批判されたと思われる文献を探索し、共産党の決議・報告、党幹部の発言、個人論文などと照らし合わせ、私なりの方法で比較・検討した。 私は以上の二冊の本で新日和見主義事件がどのように進行し、どのように決着したか検証できたと思っていたので、事件に関し、これ以上私の見解を追加する必要性を感じていなかった。 ところが、三冊目の本を出版する羽目になったのである。その理由は、川上徹が今までとは異なる視点から『素描・1960年代』(共著者大窪一志、二〇〇七年三月、同時代社)を出版したからだ。この本には、新日和見主義事件に関する驚くべき多数の新事実が述べられていた。ほとんど私の知らないことだった。完全な不意打ちと言えよう。 極め付きは、川上自身が共産党の反党分派であったことを公然と認めたことだ。一〇年前、川上は『査問』(一九九七年、筑摩書房)を出版した。彼は、この本では反党分派であることを認めず、同事件を民主集中制下における宮本顕治ら党最高幹部の反民主的な党員弾圧事件として描いていた。 私の『汚名』と『虚構』も同様の立場から新日和見主義事件をフレームアップされた事件として捉え、処分の見直しを求めた。川上と私の本はいずれも新日和見主義が反党分派ではない、という見解で一致していた。 三五年後、川上は『素描・1960年代』で突如今までの視点を一八〇度転換した。その結果、私とのあいだに根本的な齟齬が生じた。以来、私にあらたな本を出版しなければならない客観状況が続いていた。しかし、それを実行に移すべきかどうか、あれこれ思い悩んでいた。 歴史は豊富な事実を求める。その限りで川上の新事実公表も歴史への「貢献」とならないか? そう考えるにいたったとき、私は新日和見主義事件に関する三冊目の本を出版することを決意した。『素描・1960年代』刊行後、半年過ぎてからのことだった。 私の主たる出版目的は二つある。 一 川上が明らかにした分派活動の実相を検証・分析しながら、そこにいたる彼の理論的・政治的軌跡の過程を追うこと。 一 私も事件後を含むいくつかの事実や出来事を公表し、川上らとの違いを明確にすること。 この目的が達成されれば、新日和見主義事件の解明と研究はさらに進むものと思われる。同時にあらたな証言者が現れるきっかけになればと願う。 この事件は依然、闇のなかにある。青年学生運動以外の分野にも少なからず被処分者・被査問者がいた。事件の関係者は多い。しかし、証言者は少ない。今のところ本で公表したのは川上と私くらいだろう。なかにはトラウマとなって心の奥底に沈積し、固く秘して黙々と生き続ける人もいるという。 多くの新日和見主義事件関係者が人生の老齢期もしくは晩期に入りつつある。すでに鬼籍に入った人もいる。事件からすでに三五年の歳月が流れた。いま何が一番求められるのか、それは三五年の時空を超えて真相を徹底的に明らかにすることではないのか。それが歴史に対する人間的誠実さを示すことにならないか。 戦争犯罪や人道に対する罪に時効はない。殺しつくされ、奪いつくされ、焼きつくされた人々が、慰安婦や、被爆者や、集団自決を強いられた人々が、そして、諸々の戦争被害者が今も勇敢に闘っている。なぜ闘い続けることができるのか。それは、事実を求める歴史が彼らに味方しているからではないだろうか。私たちはこうした人たちにいつも思いをいたさなければならない。そして、そこから決然として学ぶことを忘れてはならない。 新日和見主義事件で、 「何があったのか」 「何を問われたのか」 「何を疑われたのか」 「何をやったのか」 「何を書いたのか」 そして、 「何が起こったのか」 それらの証言がいま強く求められる。それらが明らかになればなるほど、歴史の大地はさらに豊饒に広がる。事件の被害者の名誉にも光があてられる。 私もその立場で事実を明らかにし、論及してみたい。 |