ビデオカメラで考えよう
映像フィールドワークの発想

山中速人 著
定価1700円+税
四六判 並製 本文192ページ
ISBN978-4-8228-0982-9 C0036


撮って観るだけではもったいない。いつものホームビデオが見違える撮影のコツや、映画やテレビの真実を読み解くキーワード、映像を使った自己分析の方法などを紹介。もっと新しい自分に出会える、メディアの教材にも最適なビデオカメラ活用ハンドブックです。

▼著者プロフィール
山中速人(やまなか はやと)
1953年兵庫県生まれ。関西学院大学総合政策学部メディア情報学科教授、社会学博士、MSW。
関西学院大学社会学部卒業後、同大学大学院を経て、合衆国イーストウエストセンター奨学生としてハワイ大学大学院スクール・オブ・ソーシャルワーク修士課程修了。イーストウエストセンター・コミュニケーション研究所助手、文部省放送教育開発センター(メディア教育開発センター)助教授、東京経済大学コミュニケーション学部教授、中央大学文学部教授を経て、現職。主な著書に、『ハワイ』(岩波新書)、『イメージの<楽園>観光ハワイの文化史』(ちくまライブラリー)、『ビデオで社会学しませんか』(有斐閣)、『マルチメディアでフィールドワーク』(有斐閣)、『世界史リブレット ヨーロッパからみた太平洋』(山川出版社)、映像作品に、『アジアの社会』(放送大学)、『Hawaii: the lei of the rainbow and the universe of hula』(〈DVD-video〉パナソニック・デジタル・コンテンツ)、『七人のフィールドワーカー』(〈マルチメディアCD-ROM〉有斐閣)、ほか多数。


考えるための「ビデオカメラ」への招待

第1話 真実はカメラフレームの隅にひそかに滑り込む 考えるためのビデオカメラ論
  映像が人間の知覚を変える
  リュミエール映画が撮った大衆の姿
  ジガ・ヴェルトフとエイゼンシュテイン
  ヴェルトフと視覚の同盟
  亀井文夫の「戦ふ兵隊」と戦争の真実
  フレームの隅に記録された事実
  つくり手の意図を超える映像の力
  *今日も繰り返されるリュミエール・フィルムの衝撃

第2話 自分を撮る サモアで感じた、自分ってこんな変なヤツだった
  時間と空間の制限を受ける人間の思考
  「己を知れば百戦危うからず」
  サモア体験とセルフビデオ
  崩れ去った自己イメージ
  想像を超えた村での体験
  イントラ・コミュニケーションという対話
  セルフビデオの撮影テクニック
  映像を見返して分かること
  セルフビデオは思考のホワイトバランス
  *ビデオ・ジャーナリストに接近するテレビ番組が語りかけること

第3話 広角レンズでだらだらと撮る ビデオカメラを手にもって街と暮らしを覗く
  小型ビデオカメラが拓いた世界
  タイ中流階層のライフスタイル調査に応用
  ビデオテープから紡ぎ出された事実
  タイ中流階層の新しいライフスタイル
  防振ステディカムという装置
  撮影で明らかになった地域の性格
  地図と映像のマッチング
  映像が明らかにしたコリアタウンの姿
  シームレス映像の特性
  フッテージフィルムという概念
  映像がもたらす思いがけない発見
  *イヌイットをめぐる三つの映像が語る過去、現在、未来

第4話 会話をビデオで撮る 人は身体で話をするということ
  演出されるテレビインタビュー
  カメラの角度で尊敬が決まる
  話された会話を記録する映像
  ハワイ日系二世たちの生活史調査への活用
  日系一世の語りを記録する
  とりとめのない語りのインタビュー
  ノンバーバル・コミュニケーションの重要性
  会話を記録する撮影テクニック
  市民がインタビューを映像で記録する利点
  R教授の言説データベースの制作
  三つの方法で動画を検索
  あるテレビディレクターとの論争
  思想は相互作用のなかで読み解かれる
  サバルタンの声を聴くには
  プレゼンの装飾部分を削ぎ落とす
  *メディアが先住者を語るということ

第5話 ビデオカメラは小さな試写室 ビルマで映画「ビルマの竪琴」を見せてみた
  ビデオカメラの再生機能を使う
  映像の解釈はどこから仕入れたのか
  撮影対象に直接映像を見せ、意味を問う
  映像人類学の方法
  ビルマで「ビルマの竪琴」を一般市民に見てもらう
  フィールドノートから
  *映像メディアは「正統」なるフラを伝承できるか

第6話 映像を読み解く イコン、インデックス、シンボル
  イコンを読み解く
  インデックスを読み解く
  シンボルを読み解く
  レッスン コリアタウンの街頭映像を読み解く
  当事者と専門家が読み解くコリアタウン
  *メディアは伝えない

第7話 表現と思想、その撮影の極意 目的が異なればテクニックも違う
  撮影の極意
  カメラが存在するだけで対象を圧迫する
  光と影の両方に注目せよ
  光のコントラストがつくりだすイメージ
  思考の道具としての映像は十五秒では足りない
  映像表現で重要なのは音声だ
  「思考のための構図」は「表現のための構図」の逆に
  フィールドワークでのメディア管理の心得

最後に
参考文献
索引


考えるための「ビデオカメラ」への招待

 わたしは、社会学を研究しています。これまで、ハワイや東南アジアを中心に、アジア太平洋のあちこちで、二十五年以上にわたってフィールドワークを続けてきました。具体的には、アジアや太平洋の先住民族や移民たちの生活文化を研究しているのですが、わたしの研究の特徴は、フィールドワークの際に映像を使って記録したり、また、研究成果を発表するときに映像で表現したりすることにあります。この本では、その研究の中身ではなくて、その研究のために使ってきた道具としての映像メディア、とりわけビデオカメラについて、お話しようと思っています。
 そう思うようになったのは、最近、社会学にとどまらず、フィールドワークを行うさまざまな学問領域で、映像を研究道具に使うことに関心が高まってきているからです。文化人類学では、すでに映像人類学という研究分野が確立されています。映像社会学という分野があるかどうか分かりませんが、映像を社会や文化の研究に活用しようという機運も高まってきています。
 わたし自身は、それ以外にも、映像による知覚や経験という、現代人に欠かせない出来事を社会学のひとつの分野として研究することにも関心をもってきたのですが、ここでは、映像の研究ではなくて、映像をどう使うかという問題をお話しようと思います。
 わたしが映像をフィールドワークにどう使ってきたか、たとえば、太平洋の島国に暮らす先住民族の文化や生活の現状を調べたり、東南アジアの小さな農村の伝統的な農耕の技法を記録したり、ハワイの日系人移民の生活史をインタビュー調査したりと、わたしが行ってきたさまざまなフィールドワークの場面で映像を使ってきた経験を振り返りながら、ひとつの「考える道具」として、映像、とりわけビデオカメラの使い方をお話したいと思います。
 思えば、わたしがフィールドワークにビデオカメラを持ち込むことを意識するようになったのは、わたしがアメリカでの研究生活を終え、日本に帰ってきてようやく就職をしたのが、文部省(現文部科学省)の放送教育開発センターという研究開発機関だったことと深く関係がありました。この機関は、当時、放送大学の開校準備のために、たくさんの講義用の番組を制作していました。そして、そこに就職したわたしが最初に担当したのが、「アジアの社会」という十五回連続のテレビ講座番組だったのです。
 この番組制作のために、東南アジアにロケ隊を派遣することになりました。1986年のことでした。当時、駆け出しの助手だったわたしは、講義を担当する著名な大学教授たちと、さらに、その講義や現地の映像を撮影するビデオ撮影クルーとともに、ロケ用のワゴン車二台に分乗して、タイやフィリピン、インドネシアの地方都市や農村を何週間にもわたって撮影旅行をすることになりました。まだ三十歳代前半のわたしにとって、それは、はじめての海外ロケの体験でした。
 わたしの仕事は、AD(アシスタントディレクター)と研究助手をひとりふた役するようなことでしたが、それだけでも、わたしには目眩く経験でした。そればかりでなく、わたしは、東南アジアの社会を長期にわたって研究してきた研究者たちの研究過程を映像で記録したり、検証したり、また、その成果を映像で表現したりすることがいかに大切かということを、身をもって実感したのでした。そしてひとりの研究者が自分のフィールドのなかで自由に、思うがままに、ビデオカメラを使うことができたらどんなに素敵だろうと考えました。
 しかし、当時、海外でビデオを撮影するというだけで、たいへんな準備と技術的バックアップが必要でした。ビデオ撮影用の機材と撮影クルーを運ぶだけで、一台の大型ワゴン車が必要でした。日本から持ち込まれた機材は、そのワゴン車の荷台を埋め尽くすほど大量でした。撮影クルーだけでも四人が必要でした。これだけの機材と人間を動員するわけですから、当然、巨額の資金が必要でした。ですから、このときのように、放送番組の制作という名目がないとしたら、誰もが簡単に自分の研究フィールドにビデオカメラを持ち込むことなど現実的には不可能と言わざるを得ませんでした。
 でも、わたしは、そのときの夢が脳裏を離れることはありませんでした。いつかもっと手軽に自由に、自分の研究のためだけにビデオカメラをフィールドに持ち込める日がくるに違いない、そう思い続けました。そして、その日は意外と早く訪れたのでした。
 かわいらしい女性タレントが鼻の詰まったような声で、「パスポートサイズ」などと言って宣伝した小型ビデオカメラが、一般に普及するようになって、もう二十年近くになろうとしています。家庭で、職場で、ビデオカメラはすでに必携アイテムとなっています。子どもの記録、学校行事、誕生日や結婚式など、ビデオカメラは大いに家族のたいせつな瞬間を記録してきました。
 最近では、ただ撮影するだけでなく、ビデオカメラを表現の手段として活用する若い人びとも増えてきました。音楽に映像をつけて自分だけのミュージックビデオをつくって楽しむ若者たち、美しい自然のすがたを撮影し、それを編集して私家版「自然のアルバム」を制作する熟年者たちなどなど、一般市民によるさまざまな表現活動にビデオカメラが使われています。
 このようにビデオカメラは、人びとの生活に深く浸透するようになりました。でも、その利用方法の大半は、ただ人生の出来事を記録するためだけに使われているように思います。そして、そのビデオ映像をちょっと編集して作品らしきものをつくって家族や友人に見せるといったことがせいぜいなのではないでしょうか。もちろん、それはそれで十分楽しいことなのですけれど、わたしが、ここで言いたいのは、せっかくのビデオカメラなのですから、ただ記録するだけじゃなくて、それを使って考えよう。たんなる記録でもなく、たんなる表現のためでもなく、人間が物事を考えるための「思考の道具」としてビデオカメラを使ってみようということです。もちろん、ビデオカメラはビデオカメラですから、「考える道具」としてのビデオカメラといっても、特別な装置がついているわけではありません。電器店で販売している普通のビデオカメラです。でも、その使い方をちょっと工夫することで、ビデオカメラは、わたしたちにとって、とても重要な思考の道具になるのです。
 本書では、わたしの経験を紹介しながら、この、もうひとつのビデオカメラの使い方について七回にわたってお話をしていきたいと思います。